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前回、 迷宮脱出の原則(2) では、執着による嫌悪によって、完全な形での分離が生じ、「生」が生じる。と書いたが、この「生」というのは単純に私たちが実際に目で見ることの出来る「人間」や「動物」のことをいうのではない。 仏典やヨーガでは、まず三つの世界に大別している。 【コーザル世界】=データの世界、光優位の世界。 【アストラル世界】=音優位、つまりバイブレーションやイメージの世界。 【現象界】=粗雑な物質で作り上げた世界、あるいは現実の世界。 「真我」が落下していくプロセスを単純に示すならば、「光とデータの世界」→「神々の世界」→「阿修羅」→「人間」→「餓鬼・低級霊域」→「動物」→「地獄」ということになる。つまり、これらの世界のどこかに「生」が生じる、ということです。 ここで、少し断っておきたいのだが、「神々」「阿修羅」「人間」「動物」「餓鬼」「地獄」というのは皆さんの中にある仏教の古臭いイメージでとらえるのではなく、「とらわれや執着の度合」によって階層的にそれぞれの世界が形成されている、と科学的(?)に捉えて下さい。 もし、「地獄」という世界があったとしても、その世界は、みなさんが想像しているものとは全く違うものであることは間違いありません。 例えば、この日本においても、家族や恋人に執着し人間らしい生活を送ってる人もいれば、食うに食えない餓鬼のような生活をしてる人もいるし、セックスや遊び以外のことは何も考えない動物のような人もいますよね。 それでは、つづきです・・・・・・ |
「生」をうけた未熟な魂はこの「生」を楽しむ しかし実際は楽しむというのは正しくない 求め続けると言った方が正しい おかしい、おかしい、私の求めている楽しみは いったいどこにあるんだと これでもない、これでもない、といって楽しみ続ける そして、その背景にある苦しみに 少しずつ少しずつ気がついていく そして実は、自分自身が楽しみだと思っていたものは 実際は苦しみだったんだということに気がつく |
もともと、絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜、の状態だった真我が落下するきっかけとなったのは、外的なエネルギーの干渉によって外的な楽しみを求めたからでしたよね。 つまり、外的な楽しみさえ求めなかったならば、苦しみは生じなかったことに真我がここでハッと気が付くわけです。 この部分は、「アカデミー賞は嫌いだPART2」でM君が言ってた 「苦しみを見つめることは”真理を探求”するためのステップ」 ですね。 つまり、楽しみだけを求め続ける限り、魂の落下は止まらない、ということです。 皆さんは、この経典の内容を読んでどのような感想を持たれましたか? ただの荒唐無稽な「定説」だと思いますか?(笑) もし、みなさんの心の奥底にある真我がこれを読んで歓喜したとしたら、もしかするとそれは本物かもしれません。 次回は、いよいよ魂の上昇のプロセスについて話を進めていきたい、と思います。 |
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