★アカデミー賞作品は嫌いだ(PART1)★(2000年1月22日改稿) いわゆる、「人間ドラマ」というジャンルの映画には全く食欲が湧かない。 ラブ・ロマンス、親子の情愛を描いたもの、闘病物、ぜーんぶまとめてダメである。 まぁ、私は「ET」を観ても一滴の涙も出ない人間なので、情が薄いのかもね。^_^; 「人間ドラマ」をみるのなら、とびっきり軽い方がいい。 映画の人間ドラマはずっしりと重くて腹にもたれる。 まだ、テレビドラマの「愛と勇気」の単純でノーテンキなやつのほうがいい。 特に「アカデミー賞」をとったような”出来のいい”人間ドラマは裸足で逃げたくなってしまう。 観終わった後、憂鬱になるのだ。 頭が混沌とする。スッキリしない。 いわゆる「名作」ほど、その度合いはひどくなる。 考えてみるがいい。「名作」と呼ばれるものを生み出した世界の大文豪達の晩年を・・・・。 私は世界文学にはあまり詳しくないのであまり語ることは出来ないが、日本でいえば、芥川龍之介、川端康成、太宰治、・・・・・ どうして「名作」は書けるのに幸福な人生を送れなかったのだろう? 幸福な晩年を迎えることが出来なかったのだろう。 なぜ自殺をしてしまうのだろう? 「名作」は彼らの分身とも言える。 では、彼らの作品を「傑作だ!」と感じ、これこそ「真実だ!」と思い、心酔するとしたら、私たちが幸福になれるかどうかは自明の理ではないか? 色んな「名作映画」が”本当の愛 ”を語る。”本当の愛 ”はそんなにたくさんあるのか? 私にはそれぞれの人間達が、それぞれに”都合のいい愛”を必死で自己弁護しながら自己主張してるようにしか思えないのだ。 特にアカデミー賞作品などはその自己弁護は巧妙だ。 殆どの人は「ごもっとも!」と納得してしまうだろう。 ひねくれ者の私は「なんて、ウマイ言い訳だろう」と感心する。 ほどよく真実の混じった、もっともらしい嘘は、観終わってからの後味の悪さも超ど級だ。 「心の迷宮」について、考察を進めていくと私たちが五感で感じている「人間の世界」というのは、この世の実相の一部にすぎないことが分かってくる。 そのような一部分に限定された「目で見える人間ドラマ」の中から全ての答えを見つけようとする事自体が、そもそも無理な話なのだ。 それは、まるで「砂糖」という材料なしに、ケーキを作ろうとするようなものである。 (蜂蜜だってあるぞ!などと、まぜっかえさないでね・・笑・・) なんとも後味の悪い 「不条理な結末」 になって当たり前なのだ。 その結果、ストーリーを無事着地させるためには「巧妙な嘘」や「もっともらしい嘘」をつくしかなくなる。 確かに映画自体も「虚構」の世界だし、「嘘の世界」といえる。 しかし、「アカデミー賞」ともなれば作品の水準は当然高い。 私たちはそれを見て「リアル」に感じるだろう。 おバカな映画だったら「嘘」を見ても「バーカ!」と言って笑っていられるが、「リアルな嘘」は笑うこともできないし、うっかりすると信じてしまうから性質(たち)が悪い。 どうせ嘘をつくのなら、「かわいい嘘」にして欲しい、と私は思うのだ。 そんな時はおバカな怪獣映画でも観ながら口直しするに限る。 ただし、何の解決にもならないので真似しないように・・・(笑) |
★アカデミー賞は嫌いだ(PART2)★(2000年1月26日) 友人のMと、映画について話した。 「観終わって何の救いもない憂鬱になるような映画は嫌いだ」 と私が言うと 「そうかなぁ、そういう映画って結構存在意義がある、と思うけどなぁ」 と言った。 彼に言わせると、ただ単に楽しい映画は観終わっても虚しいそうである。 「それに、苦しい現実から目をそらして楽しみばかりを見せる映画の方が害になると思う。」 うーん!確かにそれも言える。 遊び過ぎた後の虚しさとよく似てるかもしれない。 SFXがてんこ盛りで楽しいだけの映画、というのは観ている間は楽しいけど、観終わった後 「なんだったんだ、あれは・・・」という気分と消耗感が残るもんなぁ。 彼のお気に入りの映画は「二百三高地」や「アギーレ・神の怒り」といったハード系。 観終わった後、なんの救いもなく打ちのめされるような映画だ。 しかし、彼に言わせればそれがいい、のだそうである。 彼の言いたいことは、なんとなく分かるような気がする。 原爆を題材にした今村昌平監督の「黒い雨」 高畑監督の「火垂るの墓」 ヘルツォークの「アギーレ・神の怒り」 マイケル・チミノの「ディア・ハンター」・・・・etc 観ている間は辛かったが、観終わった後は一種厳粛な、妙にスッキリした気分になったことを思い出した。 この世の楽しみだけを見つめ、苦しみから目をそらすのは「真理を探求する」「物事をありのままに観る」という観点からも見るならばやはり「片手落ち」かもしれない。 そういえば、釈迦牟尼も一国の王子、という恵まれた環境に生まれながら、ある日、街に出て世の中にある、「生きる」苦しみ、「老い」の苦しみ、「病」の苦しみ、必ず訪れる「死」の苦しみ、に気が付き、この世の「無常」に気がつき、修行の道に入った。 さて、M君との会話の続きである。 「じゃあ、憂鬱になって自殺してしまったら?」 と、聞いたら 「そりゃ、もうしかたないよねぇ」 と、あっさり。 「ガーーーン!・・・・(-_-;)・・・・」 ミもフタもない返事である。 しかし、私は反論できなかった。 「そっかぁ・・・・そうだよねぇ・・・(^_^;)・・・」 「この世が苦しみ、ということを知るのは”真理を探求”するためのステップなんだと思う。」 とも言った。これを言われてしまうと、私はグウの音も出ません。(笑) この問題については、さらに友人のMと話をしてしてみよう、と思う。このままおめおめと引き下がるわけにはいかないのである。(笑) ちなみに、それほど言うのなら「二百三高地」を見てやろうじゃないか、とビデオ屋に行って借りた。すると、店員はビデオを2本持ってきた。「・・・・? (?_?) ?・・・・・」まぎれもなく、2本とも「二百三高地」だった。 おーーい、そんな話聞いてないぞー・・・・(T.T) 3時間の長尺・・・・・。無事観終わることが出来るだろうか?
・・・・・と、いうことで、PART3に・・・・・・(つづく)(笑)
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PART 1も読みたい(笑) |
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★アカデミー賞は嫌いだPART3★(2000年2月3日) M君からの課題(?)だった「二百三高地」を観た。 3時間の映画を退屈せずに観ることができるか心配だったがその心配は全くなかった。 その前に観たM君推薦の「アギーレ・神の怒り」があまりにハードだったせいもあるかもしれない。それに較べると「二百三高地」は人間を善意に捉えている。そのぶん口当たりは柔らかい。当然語り口が「浪花節調」になっている部分も多々ある。 しかし、その一方で兵役に就くまでは、敵国であるロシアとその文学者トルストイを敬愛していた小学校の教師が戦地で部下を次々と失うにつれ、最後はロシアを憎みながらロシア人と差し違えて死んでしまうという悲惨なエピソードもある。 人間の善の部分を前面に出しながら、それとは別に、歴史的事実は淡々と語られていく。淡々と死んでゆく。その妙なアンバランスさが怖い映画だった。 ラスト近くで、映画の登場人物の最期がテロップで示される。 「明治三十九年 児玉源太郎 急死」 「明治四十二年10月 伊藤博文 暗殺サル」 「明治四十五年7月 明治天皇 崩御」 「同年九月 乃木希典・静子 夫妻 自刃 」 その後、エンディングロールと共にそれまでの戦争も何事もなかったように平和を取り戻した日本の情景が映し出される。 私は戦争映画があまり好きではない。映画は所詮、娯楽だと思うからだ。 戦争映画を観ながら、本当に反戦の想いが強くなるのだろうか?戦争映画を観ることは所詮、戦争を楽しんでるだけに過ぎないのではないか?という後ろめたさを感じてしまう。戦争映画は戦争を美化してないか?というのも気になる。 とは言っておきながら、私は「二百三高地」のラストのエンディングロールで泣けて泣けて仕方なかった。 エンディングテーマである「防人の唄」(さだ・まさし)の曲が「泣け!」 と言わんばかりに流れては、もう泣くしかない!・・・?・・・(^^;) 今は亡き、夏目雅子の美しく凛とした笑顔を見ながら 「あ〜、この人も死んでしまったなぁ」と思ったら、もう全然涙が止まらない。(笑) しかし、それでも私は、自分自身の「感動の涙」に対して懐疑的だ。 「戦争映画を見て感動しちゃっていいの?」と思ってしまう。 これって「本物の感動」なんだろうか? そもそも「感動」って何だ? 私は自分の「感動」に素直に感動できなかった。 ちなみに、M君は泣けなかったそうである。 ・・・・・というわけで、今回も、結局何が言いたいのか自分でもよく分からない。 どうやら私のアタマも「迷宮」に入ってしまったらしい。 |
PART1 から読みたい(笑) |
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私は映画や小説が紡ぎ出す「物語」が好きだ。 しかし、好きでいながらも、いつも何かしっくりこないのである。 いつも心の中にわだかまりが残るのである。 それが最もひどいのが「名作」と呼ばれる「人間ドラマ」である。 それは、なぜだろう? ところで、私は宮本 輝という作家がとても好きです。 宮本 輝という作家が紡ぎ出す物語が好きだ。 宮本 輝の描く作品も、やはり「人間ドラマ」である。 彼は、同時に芥川賞作家でもある。(「蛍川」) しかし、宮本 輝作品に不全感やわだかまりを感じることはほとんどない。 これは、彼の作品がすべて「ハッピーエンド」ばかりだから、というわけではもちろんない。 それに、ハッピーエンドでも後味の悪い作品はいくらでも存在する。 では、宮本輝の紡ぎ出す「物語」と、アカデミー賞や、名作といわれる文学の「物語」のどこが違うのだろうか?この「違い」にこそ、迷宮に入ってしまった(笑)「アカデミー賞は嫌いだ」を完結させるキーワードがあるに違いない、と私は思いました。 そして、宮本 輝のエッセイ・「宿命という名の物語」の中に やっと、そのキーワードを見つけました!!\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/←バンザイ三唱(笑) このエッセイには、私が言いたくても表現できなかったことが、そのまま言葉になってます。 それでは、どうぞ!!(笑) 「宿命という名の物語」の全文を読みたい方は こちらをクリックして下さい。(^_^) フォントが大きいので、読みやすくなってます。 |
宮本輝・著・エッセイ集「二十歳の火影」より 「人は、生まれながらに差がいている」という言葉がある。 何でもない言葉だが、きわめて重要なことを示唆しているように思われる。 身分の差、貧富の差、容貌の美醜、頭脳の良否、体力の強弱、生まれ出る時代の差異、または生まれ出る国土の相違。 これらの「生まれながらについてる差」は、もはや宿命とよぶしかない。 それを宿命と呼びたくない人もいるに違いないが、意志とか努力とかの及ばない領域については、やはりそう呼ぶしか仕方がないであろう。 しかも、多くの文学作品は、この宿命というものに対する、敗北の記録であった。 文学は、醜女(しこめ)を美人にはしてくれなかったし、重い病を治してもくれなかった。 生まれながらについている不条理な差別から、人間がいかにして解き放たれるかの手口を示してはくれなかったのである。 近代文学は、小説的技法とか方法論を模索するだけで、「物語」そのものからはますます逃避していく。 その否応なしに背負いこんだ「物語」に、人間たちはどれほど徹底的に痛めつけられ、翻弄されつづけてきたことか。 にもかかわらず、文学にたずさわる人の多くは、この「物語」に、いっこうにたち向かっていこうとはしない。 「もし天分と幸運に恵まれるならば、芸術家は誠実な努力によって、神秘的に地上に現われた人間の苦闘、喜び、希望、さだかでない運命の中で、全人類を結びつけあっている連帯感を、人々の心に呼び起こすことができるようになるだろう」 これは「ロード・ジム」や「青春」などで海と人間を描きつづけた作家、ジョセフ・コンラッドの言葉である。 ところが、芸術家、なかんずく文学に関わるものの多くは、喜び、希望、連帯感といった代物に、とりわけ興味を示さない連中であって、傲岸から生まれる孤立感、無常なる世の現象から生じる虚無感へと自らを追いやってしまう性癖を持っている。 それらの作家にすれば、喜びや希望や連帯感など、どうでもいいのである。 私は、なぜ人間は生まれながらに差がついているのかという命題に、深く関わっていこうと思う。 それはもはや宗教の領域であるが、私はどこかの誰かさんがあなたをそのようにお作りたもうたのだ、などという宗教を信じるわけにはいかない。 そうした説得に応じるには、少々すれっからしになってしまったし、いささか残酷な現実につき合い過ぎてきたからである。 そんな私には、コンラッドの言葉の、連帯感というくだりが、ある意味合いを持って迫ってくる。 ここで言う連帯感とは、個々をいましめ合っている宿命という名の過酷な物語を駆遂し粉砕し、より良き生と死へと開いていくための、人間だけの共通した力と意志と実践の異名である。 |
はい、いかがでしたか? エッセイの全文を読んだ方はお疲れさまでした。(笑) 読み疲れたかもしれないので、とりあえず、ここいらで休憩しましょうか?(笑) どうも、私の日記は、いつも長すぎるような気がしてます。 少し短めにした方がいいのかなぁ。^_^; きちんとまとまったものを書きたいので、どうしても長くなってしまいます。 紙に書いてある活字と違って、パソコンの画面で読む活字は疲れますよねぇ。 さて、休憩が終わった方は、つづきです。(・・・もう、明日にする?^_^;・・) 私は、このエッセイを読んで、「アカデミー賞は嫌いだ」で本当は何を言いたかったのかが分かったような気がしました。 つまり、上記のエッセイの「文学」と「アカデミー賞作品」を入れ換えればいいだけの話なのだ。 私たちの心を本当に痛めつけ、翻弄し、傷つけるのは、嘘が透けて見えるような単純な物語ではない。 この世の事象の本質に迫りながらも、最後には「宿命」に敗北してしまう「名作」なのである。 「なまくら包丁」と「名刀」では、傷の深さが違う。 人間にたとえるならば、とことん心酔し信頼していた相手に、最後の土壇場で裏切られるようなものだ。 それは、別になんとも思ってない相手に裏切られるよりも深く傷つく。 「アカデミー賞は嫌いだ」は「名作は嫌いだ」と、置き換えてもいいかもしれませんね。 人間ドラマの中の宿命を破壊するためには、人間ドラマを呑み込む大きな視点が必要です。 人間の生と死を超えた視点に立たない限り、決して人間の「宿命」を破壊することは出来ないでしょう。 やっと結論が出たようですね。(まだ出てない!と言われても、責任は負いかねます。^_^;) それでは、最後に、二言(ふたこと)・・・(笑) 「宿命」に敗北する「名作」は、ただの「迷作」である。 うーーーむ!締めくくりは、「駄洒落」で終わってしまったか。^_^; |
『アカデミー賞は嫌いだ!完結編』を読んで戴いて、みなさん、ありがとうございました。m(_ _)m おかげさまで、掲示板には 怒濤のカキコミッ! ^_^; かなり強引な「寄り切り」で完結させたせいか色々な問題を提起してしまったようだ。 ヘビーなカキコミがうじゃうじゃひしめいてるのを見て、かなりびびった!^_^; そんなわけで今日は、『アカデミー賞は嫌いだ・完結編』に関する掲示板のカキコに Res をしながら、日記を進めていこう、と思います。 くれぐれも「問題発言」しないように気をつけなければ・・・・・・ まずは、超重量級の ra-ra さん のカキコから片づけ(?)ましょう。(ra-ra さん、ゴメン!^_^;) |
【投稿者】 ra-ra 【投稿日】2000/06/15/(木)
午後06:30:51 読ませた戴きました 長篇ですね 私はアカデミー賞 いいじゃないですか派になるかな? 受賞作と好き 嫌いは別ですからね 受賞作が全部 名作とも限らないし、美術や製作一搬に関わる人にとっては受賞したら励みになるでしょう。多くの人がそれに向かって努力するものって あったほうが良いじゃありませんか。 受賞するために工作があったり、駆引きがあったりもあるでしょうが 選ぶ側も人間なんですから結果を 鵜のみにする必要もないし・・ それもドラマ こういう書かれ方、キタローさん嫌いでしょうね(笑) <人間ドラマの中の宿命を破壊するためには、人間ドラマを呑み込む大きな視点が必要です。> それは 全知全脳者の視点ということになるのかな? するとその先は宗教になってしまうでしょう? 大江さんが一時もう小説は書かない 現代は物語りに力が無くなったと言ったことにも共通しませんか? <私たちの心を本当に痛めつけ、翻弄し、傷つけるのは、嘘が透けて見えるような単純な物語ではない。 この世の事象の本質に迫りながらも、最後には「宿命」に敗北してしまう「名作」なのである。 しかも、多くの文学作品は、この宿命というものに対する、敗北の記録であった。 さだかでない運命の中で、全人類を結びつけあっている連帯感を、人々の心に呼び起こすことができるようになるだろう (コンラッドの言葉)> 引用がキタローさんの言葉と宮本氏のことばが混ざってしまった(この欄狭くて自分で何書いてるかワカラン) 私も『人類を結びつけあっている連帯感を、人々の心に呼び起こすことができるようにな』がポイントなんだと思います。 その人が産まれた時に配られたカードは変えられない けれど そのカードを使って生きていくのは他ならない自分なんでしょう。 どんな映画も文学作品もみな超えられない壁をかかえているように思います おそらくキタローさんのおしゃりたいことは構えて名作ぶった作品は嫌いだよ それなら徹底的なナンセンスの方が価値があるよってことじゃないのかな 頭の弱い私は感じ方でしか書けませんが それでも藁の山から針をさがすより ヒントを与えてくれるアカデミー賞は参考になります 好きな映画にディアハンターがあったのは・・ |
ra-raさん、こんちは!! 私のも長編だけど、ra-raさんのカキコも長編ですね。(笑) きっと真剣に読んでくださったんだろうなぁ、と感激してます。 確かに、作家の大江氏が言ってることと、宮本氏が言ってることは、ある程度同じでしょうね。 《藁の山から針をさがすより・・・》は、もっともですね。 私も、アカデミー賞に限らず、カンヌ映画祭や、ファンタスティック映画祭等・・・なんらかの賞を獲った作品を選びます。 「賞」には、拘りたくないけど、特にビデオの場合は「賞」をひとつの目安にしないと、延々とカスのような映画を観続ける羽目になりますよね。^_^;)あとは「監督」を重視するかな。 人によって、文学や映画の物語に期待するものはそれぞれに違いますよね。 私は、やはりまず最優先として、「宿命を破壊し乗り超える物語」を見たい。 それは、まず前提として、私が「運命を変える事が可能である」と信じているからです。 だからこそ、「人間は、結局のところ運命を乗り超えることは出来ないのだ!」と思わせるような物語が許せないし、そのような「物語」が「名作」と呼ばれることに強い苛立ちを感じてしまうのです。 ナンセンス物はほとんど見ません。「宿命の破壊」を信じさせてくれるような、愛と希望の単純で明るい物語の方が、宿命に敗北する名作よりは好きだ、ということです。 〈それは 全知全脳者の視点ということになるのかな? するとその先は宗教になってしまうでしょう?〉 そんな感じになるのかなぁ。(笑) 私は、「原因」があって「結果」がある、というこの現実の世界を考えれば、「運命」や「宿命」と呼ばれる人それぞれの「個体差」の原因は「生まれる前」にある、と考えています。 そうなると、私たちが、生まれて死ぬまでの間の、「目に見える世界」だけが全てである、という閉じられた視点に立つかぎり「宿命の実相」は見えない、ということです。 引用がキタローさんの言葉と宮本氏のことばが混ざってしまった(この欄狭くて自分で何書いてるかワカラン) アハハ!(笑) 掲示板のカキコミ欄は狭いので、長文は途中で何を書いてるのか、わからなくなりますよね。(^.^) 一旦、エディターで清書して、コピーペーストした方がいいかもしれません。 混乱したといえば、「コンラッド」、「宮本輝」、そして私の言いたい事がゴチャ混ぜになって混乱しました。 おまけに、「コンラッド」の引用文は、句読点を無視して読んだら 「・・??????・・」 わたしには、難文でした。^_^; 「ディア・ハンター」は、観終わって一時間以上経った頃に突然涙が出てきて、自分で自分にびっくり! 強烈な印象を残した映画でしたねぇ。 しかし、考えてみると、この映画も「敗北の物語」の部類に入るわけだけど、どうしてこの映画が好きなのか私には分からない。^_^;・・・・・・おまけに、アカデミー賞作品だし・・・・・・(言ってることと、泣いてること(?)が、全然ちがうじゃないか?・・・・スミマセン!(;^_^A アセ・・・) |
アカデミー賞 【投稿者】
ゴジラ 【投稿日】2000/06/14/(水)
午後12:28:55 キタローさん、「アカデミー賞なんか嫌いだ。」完結編を読んだんですが、 私には難しすぎてよくわかりません。 宿命を映画で扱うには重すぎるという意味でしょうか(^^;。 それより、白線流しの言葉の方が面白かったです。 私も大学でずっと遊んでいました。ばれたか(^^;。 今も遊んでいるって。内緒ですよ。 |
文学が宿命を扱う事が重すぎる、ということではありません。 宿命というものは、天から与えられた偶然の産物ではなく、実は自分の手によって作り上げたものである、という示唆を与えるものであって欲しい、ということです。全ての苦しみの因は、「外」にあるのではなく、自分自身にあり、それを乗り超える事は可能である、という示唆を与えるものであって欲しい、ということです。 ゴジラさんが難しく感じたのは、きっと私の表現力不足です。(^_^;) 私と、宮本輝氏、コンラッド、の表現の違いと、微妙な主旨の違いも混乱の原因かもしれませんね。 そっかぁ、「白線流し」の言葉が気に入りましたか。 この言葉は、以前書いた「人ゴミに流されて」のテーマと通じるものがありますね。 「白線流し」は、私が更新のお知らせを他の掲示板にカキコミするときに添付する「今週の言葉」のことです。 なんの事か分からない人のために、ここで紹介しましょう。 近いうちに、今までの「今週の言葉」を集めたコーナーを作りたい、と思います。 |
大学ってさ、枷(かせ)っていうものが何もないんだよ。 ほんと、驚いたよ。 今までの「受験」っていう枷(かせ)が無性になつかしいんだ。 なにしてもいい。 なんでもできる。 おまけに、社会に対する責任はない。 国の税金つかって、「大学生」って身分もらってんのに ダラダラ喰いつぶしてた。 きっと楽だったんだ、と思う。 自分から動かないことが、こんなに楽だとは思わなかった。 けど、楽しくなかった。 楽だけど、楽しくなかった。 なんだかわからないまわりの風景に呑み込まれてさ これが「歯車」ってやつかなぁ、ってちょっと感じた。 このまま、3年、4年になって、就職活動して、社会に出て どんどんこの歯車の中で生きていくこと見えて来ちゃうんだけど 「それもいいかなぁ」 「それも楽かなぁ」 という自分がすごくみじめになった。 【 TVドラマ・『白線流し』より 】 |
おひさしぶりです 【投稿者】 ざりがにさん 【投稿日】2000/06/14/(水) 午後10:02:080 アカデミー賞は嫌いだ!完結おめでとうございます。 ご苦労様でした。・・・読ませてもらいましたよ。 ははん、でもやっぱり私はアカデミー賞は参考になります。今年の美術賞に輝いた「スリーピーホロウ」は、確かに!と納得しました。 アカデミー賞は作品や俳優、女優の賞だけではなく監督や美術、音楽など…いろんな面で参考になります。 アカデミー賞だからいい作品とは限りませんが、これはやっぱり毎年楽しみにしちゃいます。 こういうミーハーがいてもいいよね。 |
ざりがにさん、お久しぶりです。(^_^) 「アカデミー賞」は映画の世界ではもっとも権威のある「賞」と言えるかもしれません。 しかし、「アカデミー賞作品」の中に、運命に真正面から立ち向かい、闘う気力を奮い立たせてくれる作品のなんと少ないことか。 まぁ、確かにアカデミー賞作品の発表、というのはイベントとしては楽しいですけどね・・・(笑) 私も、色々な「賞」は映画を選ぶ時の目安にしてます。 「賞」というのは、作品を選ぶときのひとつの目安になるけど、自分と相性の合う作品というのは、まさに藁小屋の中から一本の針を捜す確率ですね。(笑) 10年前は、もっと確率が高かったような気がするなぁ。 この頃は、作品を選ぶ作業に少々疲れてきました。^_^; |
さて、投稿編のPART−2です。(多分、完結編になると思うが・・・^_^;) 今回はかもめさんとhannaさんの投稿をワンセット(?)にして話を進めていきましょう。 まずは、かもめ さん の投稿から紹介しましょう。 |
こんにちは!(^^)/ 【投稿者】
かもめ 【投稿日】2000/06/17/(土)
午後04:39:14 完結編読みに来ましたよ〜! しばらく来れなくてごめんなさい(^^;)。 確かに読むのに時間がかかりましたが、私はとっても納得しました。 「宿命を克服できない名作」の言葉ですが、私は以前から童話の「みにくいあひるの子」「美女と野獣」のたぐいは嫌いでした。いや、嫌いというより、納得できませんでした。 みにくい姿の自分を恥じ、うちのめされて、それでも乗り越えてがんばっていこうとするところで、何故「美しい姿」になってしまうのか。 みにくい姿にとらわれる生き方を克服したのに、まるでご褒美のように美しい姿になるなんて、私には絶対納得できなかったのです。みにくい姿はやはり「みにくい=負の価値観」であるのか。価値を外見に求める生き方を戒める物語ではないのか?? それこそ童話の偽善であると思っていました。(今でもそう思ってます^^;) 私は、アカデミー賞自体には特に感情はないのです。ただ、自分の大好きな作品が受賞するのは、やはりうれしい。注目度で言えば、効果大ですからね(^^)。 今、すっごく観たい映画に「ムッソリーニとお茶を」というのがあるのですが、その映画の予告編は、非常にクドイのです(苦笑)。 オスカー俳優がたくさん出演してるからって、いちいち「アカデミー主演女優賞の・・」「アカデミー助演女優賞ノミネートの・・」なんて言うなぁ〜〜!!! 結局、アカデミー賞は興行主の経営戦略に利用されてるだけなのですな(´o`)。 私たち観る側も、賞は参考に利用すればよいのですよね。「アカデミー賞作品なのに、私はいいとは思わなかった」なんて感想になったって、それでいいんですよ♪ 他人の価値観に振り回されるのはつまらないです(^^)。 |
つづけて、hanna さん の投稿です。 |
感動とは 【投稿者】 hanna 【投稿日】2000/06/14/(水)
午後12:57:16 感情が動くことでしょう。 えっ、当たり前だって(笑)? で、何に対して、どうして心が動いたかですよね。 好きとか嫌いとかも。 でも感動って、深いものだと いろいろな要素が交じり合っているし、 本当に「直撃」されてて、 考える前にもう「やられてる」。 ダンサーとしてはそういうインパクトを人に与えられるような踊りを踊れたら、と思います。 |
かもめさん、そして hannaさん、こんにちは!(^.^) かもめ さんのカキコは、まさに 「待ってました!」 と言うべき素晴らしいコメントですねぇ。(^_^)v 私が言いたくても、表現不足から言いきれなかった言葉がここにある。 かもめさんは、このHP「迷宮」を守護する女神みたいだ。(笑) hannaさんのいうとおり、私も「感動する」という心の状態をあまり信用してない。 人間はどんなことにも「感動」する。邪悪なものに対しても感動する。 「感動」ほど曖昧でいいかげんな感情はない。 山之口 洋は、「オルガニスト」の中で、 人間の感動の構造は実に単純なのだから 感動を至上の目的とするものは真の芸術家ではありえない。」 と言ってるが、同感である。 かもめ さん がいうように、「醜いあひるの子」が「美しい姿」に変身することで人々は「感動」する。 「醜い野獣」が「美しい姿」に変身することで人々はある種のカタルシスを得て「感動」する。 しかし、最も重要な問題は少しも解決してはいない。 どんな美女も美しくいられるのは一瞬だけだ。 年老いれば醜くなる。 花の命は短いのである。 もっとも重要な問題は、たとえ外見は醜くとも、心は美しく平安で幸福でいられるかである。 これ以上の「宿命」に対する勝利はない。 仏教的見解を付け加えるならば、この美しい心は、次の転生の美しい容姿の因になる。 カタルシスを得ることによる「感動」は論点のすり替えによるごまかしが多い。 みなさんの中には、感動させられたことが妙に癪にさわったり、なんとなくスッキリしない、という気分を経験した人は多いのではないでしょか。 そんな時は、自分の「感動」に疑いをかけたほうがいい。 そこで、最後に一言。 よ〜し、今回はキマッタ!・・・・・かな?(笑) 『アカデミー賞は嫌いだ』を最初から読む |