私達の心の本質について、ヨーガや仏典ではこのように言っている。 その特性は、絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜、である。 私が最初にこの記述に触れたとき、心の奥底に響くものがあった。 私は常々、人間が創造できるものなど何一つない、と思っていたからだ。 私たちに出来るのは、「あらかじめ存在しているもの」からデーターを引っぱり出し、それを応用してるにすぎない、と。 私たちはただ単に、様々なとらわれや無智によりそれが見えないだけなのだ。 では、どうして「真我」は、絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜、の状態でなくなったのだろうか? さらに、教典を読み進めてみよう・・・・・・ 3つのエネルギー(ラジャス・タマス・サットヴァ) の干渉を受け、その美しさに幻惑され、 「今のこの状態より素晴らしいものがあるのではないか」 と錯覚を起こすことによって落下が始まる。 その結果、「自と他の区別」が生じる。 それによって、自分と外界、対象に対し その差異によって楽しみを求めるようになる。 そして、その楽しみを何度も何度も繰り返すことにより 「貪り」が生じる。 さらに、その貪りによる「執着」が生じる。 さらにその「執着」により、その対象に対して これは自分のものである、これはわたし自体のものである よって、私の得ようとしている対象を傷つけられたくない。 そこで「嫌悪」が生じる。 そして、完全な形での分離が生じ 「生」が生じる。 これは「教え」なんてものではない、もちろんマスコミが喧伝しているような「宗教」でもない。これは、まさに「科学」だと思いませんか?。 「執着」と「嫌悪」が表裏一体であることを、これほど的確に表現した文章を私は他に知らない。 私は「宗教」が嫌いである。しかし、もし科学的な宗教(?)であるならば勉強してみたい、と思う。ヨーガや仏典(原典に近い原始仏典など・・・)は非常に科学的である。下手な精神分析の本よりヨーガ経典の記述は論理的である。 マスコミによる情報操作で「宗教」を胡散臭いものであると思い込んでる人がこの本を読むと「宗教」の観念が崩壊することは間違いない。それは「経典」ではなく、まるで「学術書」のようであり、「数学」の本のようでもある 逆に言えば精神分析の本は世紀のベストセラー(?)であるヨーガ経典や原始仏典の一部をパクってるに過ぎないのではないか、とよく思う。 実際に海外の大物シンガーやアーチストなどで本番前の精神集中のためにヨーガの瞑想をしている、という話はよく聞く。 先日の「笑っていいとも」では、三輪明宏が 「私のエネルギー源は”お経”を詠むことよ!」 と言ってた。(笑) 私たちが普通に生活し、その中で普通に入ってくる情報によって幸福になれるのであれば何の問題もない。 心の闇を取り除き、心の安定を得ることが出来れば何の問題もない。 しかしそうでなければ何か「裏」があると思って間違いない。 「初詣」や「七五三」や「水子供養」や「合格祈願」の宗教(?)にハマっている場合ではないのである。 ついでに言えば、神など信じない「超現実主義」もマスコミ信奉の「無宗教」も立派な”宗教”であることを付け加えておこうかな?(笑) |
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