エッセイ



6月2日(金)

臨死体験

光陰矢のごとし!おいおい、もう6月だよ。どうなってんだ?と言いたくなる。
この月日の経つ早さはグ〜タラな生活をしていた、という証拠でもある。^_^;

仕事をしていた時はそれなりの勢いがあるので、ある程度の惰性で走り続けることが出来るが、仕事を辞めて一旦停車(?)してしまうと、動くのが大変だ。

「次の仕事は、なるべく早く見つけたほうがいいよ!」

と、言った友人の言葉の意味がどういう意味か、今では身に沁みて良く分かる。^_^;

さて、今日は久々のかもめさんのカキコを元に、日記を進めていきましょう。


こんばんは〜〜(^^)/  【投稿者】 かもめ 【投稿日】2000/05/27/(土) 午後11:58:08 

おひさしぶりです(^^)!覗きに来ましたよ〜。

最近、頭使ってないなぁと思ったら、キタローさんのところに来てなかったからだと気が付きました。←ぢぶん(^^;

キタローさんのページは、来るたび何かを考えさせられますので更新が途絶えるとちょっと(いや、かなり)淋しいですぅーー。

近しい人が亡くなられると、(若い人の場合は特に)死に様、生き様について考えさせられますね。
自分だったらどうだろう?
自分が死と向き合った時、どうなってしまうのだろう?
不治の病と宣告された時、自分はどうなってしまうのだろう?

今のところ、そういう経験の無い私には語る資格はないのかもしれません。

でも、私は、私の生き方を人に見てもらいたい、と思う。
必ず来る死を目の前にして、自分がどうなってしまうのか、前向きに生き切ることができるのか悪態をつきながら死んでいくのかそれはわからない。
それでも、私が知っている人には見てもらいたいと思う。

私の死に様(生き様)を見て、どう感じるかは、その人たちに任せたい。お手本にしてもいい。反面教師にしてもいい。

私は「命は永遠」だと信じてる。この一生の終わりには次の一生が待っている。
「この一生」を気持ちよく終らせることが出来たなら、「次の一生」も気持ちよく始められると思う。

「気持ちよく終らせる」ことが出来るような自分でありたいです。理想論かもしれない。でも理想を無くしたら成長もないよね。普段ぐーたらな私なんかは特に。。(^^;;

亡くなられた娘さんのご冥福をお祈りいたします。


http://www.hello.co.jp/~ilyich/


いやぁ、久しぶりのかもめ節(?)いいですねぇ。(笑)

あえてコメントを挟む気分にならないのは、かもめさんと私の宗教的価値観が似てるからだろう。
それでも、やはり私はくたびれた中年男で、かもめさんは、うら若き美女。(笑)←笑っちゃいかんか?
当然、現象に対する切り口はかなり違ってきて、私がコメントすればキタロー節に、かもめさんがコメントすればかもめ節になる。
そして、私はこのかもめ節がえらく気に入ってる。(笑)

最近頭使ってないと思ったら・・・・・・・

更新してない、ということは私も頭を使ってない。
お互いパーにならないよう私も頑張って更新します。(笑)

死にざま、という言葉で作家・宮本 輝の「流転の海」のワンシーンを思い出しました。

時代背景は敗戦二年目、大阪の闇市。

シチュエーションは、主人公(「松坂商会」の社長・松坂熊吾)の直属の部下である井草が金を持ち逃げする。井草の行方はわからない。

そこで、共謀したと思われる「亜細亜商会」の海老原を問い詰めるシーンである。

それでは、どうぞお楽しみください。(笑)


海老原 そやけど大将(松坂熊吾のこと)、井草はんが姿を消したのは、私がたきつけたからだけやおまへんで。
井草はんも、大将を嫌いになったんです。
大将のお守りが、もうしんどなったんでっせ。(中略)せやから私は、大将から離れることが先決や。次は、金を作れ。私は、正直に私の考えを言うただけです。
それを、井草はんがどう取ったのかはしりまへん
松坂熊吾 お前らしい言い草やのお。
言葉が違うだけで、人を裏切れ、泥棒をせいちゅうとるのとおんなじやないか。
お前はそうやってここまでのしあがって来て、これからもその“て”で生きて行くつもりじゃろ。
芦屋か御影に、結構なお屋敷を建てて、虎の剥製を飾った部屋にふんぞりかえって、儲けた金の勘定をしとるのが、人生の勝利者の姿やくらいに思うちょる男よ。
しかし五十になり六十になり、人生最後の時が来たら、お前は寂しいて苦しいて、どうしようもなくなるぞ。
金も屋敷も、世間の肩書も、持っては死ねんのじゃ
海老原 あした食う米もないのに、私は幸せやとは言えまへんやろ。
貧民窟の腐った畳の上で寝起きして、私はこれでええんやっちゅうても、人は相手にしてくれまへんで。
人生に勝つための一番の武器は金やおまへんか。
大将になんぼ叱られても、私はこの考えは間違いやないと思てます。
たとえ私をここまでしてくれはった大将でも、私の生き方まで干渉する権利はおまへん。
そういう自分の考えを押しつける大将の性格が、井草はんはいやになったんやおまへんか?
松坂熊吾 薄汚いコソ泥が、ふたりそろうて談合して、人生を語り合うたっちゅうわけか。
井草は死んだも同然よ。
あいつがこれからまともな人生を送れたら、この松坂熊吾の首をやる。
わしがそう言うとったと伝えとけ。

それから、たぶん順番でいけば、わしは見届けることは出来んじゃろうが、お前の臨終の顔は、目ェそむけるくらいに、歪んで汚らしいことじゃろう。

このわしの言葉もわすれるな。


私も、かもめさんと同じく「輪廻転生」を信じている。

どうして?と聞かれれば、この世の現象を論理的に解析すれば「輪廻」という見方を取り入れなければ辻褄が合わないからだ、としか言いようがない。

このことについては、次回の日記で考えてみようと思います。

ステージの高い仏教の修行者たちは、臨終の時は座法を組み、全く恐怖することなく鮮明な意識状態を保ったまま (修行者に老人ボケはない。) 瞑想によって生と死の中間状態であるバルドー(臨死体験でよく出てくる世界ですね)に入っていく、と言われています。

いずれにしろ、どのような死に方であれ、安らかな顔で死にたいものですね。

もし、輪廻転生があるとするならば、かもめさんの言うとおり、この生の終わりの精神状態は次の生のスタートにプリントされるからです。

6月9日(金)

遺伝だから仕方ない

人との会話の中で

「でも、それは遺伝だから仕方がない。」

という言葉を聞くと

「気持ちは分かるけど、なんだかなぁ。」

という気分になる。

例えばよくあるパターンとして、女性の場合、自分の容姿に自信がない。
そこで、自分の両親の顔を思い浮かべながら

「親が親だからしかたないもんね。」

つまり、自分がこんな顔に生まれてきたのは両親のせい、というわけである。
これでは両親が気の毒である。

「遺伝」という言葉は「運命」という言葉とよく似ている。

「こんな顔に生まれてきたのも運命よね。」

と、いうわけである。

遺伝や運命という言葉が出ると、大体においてその話はそこでオシマイである。

どうかすると「運命を受け入れる」というような、分かったような分からないような美しい言葉で納得して話はオシマイになる。
しかし、「受け入れる」と「あきらめる」は違う。

まぁ、私の場合は、「運命」や「遺伝」とケンカも出来ないようなら、生きていてもロクなことはない、さっさと人生を降りてしまった方がマシだ、と考えているので意見の相違、ということになるのだろうか。

それにしても、自分の持ってる先天的な容姿、性格、病癖、体質、生い立ち、才能、それは本当に「運命」だろうか?本当に「遺伝」なのだろうか?
それは本当に両親のせいなのだろうか。
そもそも、どうして今の両親の子供として生まれたのだろうか。

私がこのような話をすると、ほとんどの人が
「お前、なに言ってンの?」というような顔をする。
へたをすると「なにか宗教でも入ってンの?」とくる。

「遺伝ってなに?運命ってなんだよ?」と聞けば「遺伝は遺伝。運命は運命だろ?」とくる。

つまり、「当たり前」という名の行き止まりになる。

しかし、私たちは、今こうして生きてること、この世に存在していることに対して、もっと「不思議」を感じてもいいのではないだろうか?
生命の不思議に「遺伝子」のレッテルを貼って、すべてを当たり前にしてしまう感覚、というのはどこか間違っているような気がするのだ。

たとえば、あなたが先天的な病気を抱え、不幸な境遇に生まれたとしよう。
その時に、あなたはその残酷な「運命」に対して、「偶然」や「当たり前」という言葉で納得出来るだろうか?
「運命」や「遺伝」で納得出来るだろうか?

そこに、あなたの意思は微塵も働かなかったのだろうか。

「わざわざ、容姿が悪くなりたいはずがない。わざわざ先天的な病気を抱えて生まれたい、と思うはずがあるものか!」

あなたはそう言うかもしれない。

本当にそうだろうか?

禁断症状で苦しんでる麻薬中毒患者の目の前に、「健康食品」と「麻薬1g」を出したら彼は1gの麻薬を選ぶだろう。

ニコチン中毒者は風邪をひいて咳が出て苦しいとき、余計に苦しくなるのを分かっていながらタバコを吸うだろう。
アル中患者は、苦しくなるのを分かっていながら酒を飲むだろう。

人は、自分を苦しめる、と分かっているものをいとも簡単に選択するのである。
なぜなら、私たちは様々な欲望に対して中毒症状を起こしているからだ。

「遺伝子」はつまるところ「情報」である、と言われている。
そうなると「苦の遺伝子情報」や「楽の遺伝子情報」もあるに違いない。
では、「苦の遺伝子情報」とは、なんだろうか?
それは、苦しみの因となるものを喜びと錯覚する情報。と考えることも出来る。

ほとんどの人は、私たちは卵子の受精により、そこで初めて生命が「誕生」する、と考えている。

しかし、本当の仏教的な見方はそうではない。

私たちの魂は既に存在していて、自らの執着するヴィジョンに流されながら、自ら母親の子宮に飛び込むのである。

喜びの形をした苦しみに向かって。


6月13日(火)  

言葉にならない思い

自分の「思い」を言葉にするのは、なかなかに厄介な作業である。

たとえば「ラブ・レター」なんかはその最たるものだろう。
書いても書いても、なにか違う。
なにが違うのか分からないが、違う。
あげくのはてに、なにを書きたいのか分からなくなり、そのうち本当に書きたいことから遠ざかっていくような気分になったら、そこはまぎれもない「迷宮」である。(笑)

エッセイ・「アカデミー賞は嫌いだ」 を書いた時はまさに、そんな感じだった。
このエッセイを読んだ人は、「結局なにが言いたいの?」と思ったに違いない。

それを知りたいのは私の方である。(笑)

前回書いたのが、2月3日でした。
つまり、「アカデミー賞は嫌いだ」は4ヶ月間も「迷宮入り」したまま・・・^_^;

しかし、やっと出口らしいものが見えたので

「アカデミー賞は嫌いだ・完結編」をお届します。(笑)

(まだ読んでない人は、「アカデミー賞は嫌いだ。PART1〜PART3」からどうぞ。)


6月19日(月)

今日は、『アカデミー賞は嫌いだ・投稿編・PART−1』をUPしました。

簡単には終わらないだろうなぁ、というイヤな予感が当たってしまった。^_^;

PART−2」は、2〜3日後に更新予定です。(hanna さん、かもめ さん、待っててね・・・^_^;・・・)


6月21日(水)

アタマが止まらない!

さて、今日は mary さん のカキコミに対する Resを元にした日記と、
『アカデミー賞は嫌いだ・読者投稿編・PART-2』 の 豪華2本立で進めていくことにしましょう。(笑)


はじめまして(^^)  【投稿者】 mary 
【投稿日】2000/06/14/(水) 午後12:12:32

 こんにちは。(^^)

C'sさんのところからリンクしてきました。

『はじめに』を読んで、あ、ここは私向きだなと思いました(笑)。

フル回転の思考は、高校を卒業してからの10年間がすぎれば終わってくれるんだろうか・・・?
あぁ、無事に終わってくれよ、と願う毎日なのだけれど、果たしてどうなることやら・・・ま、答えは時期にわかるけど(笑)。

また来ます。(^^)/


mary さん はじめまして!!(^.^)

返事が大変遅れて申し訳ありませんでした。

maryさんへの Res は、このHP「迷宮」にとって、非常に重要な問題を含んでいたので、私自身しっかりと頭の中を整理する必要があったので時間がかかってしまいました。^_^;

》》 『はじめに』を読んで、あ、ここは私向きだなと思いました(笑)。

絶対に mary さん向きです。(笑)

私が「迷宮」を開設するとき、最も「読んで欲しい!」と思ったのは、まさにmary さんのような人です。

私と同じような経験を持っている mary さんのような人を私は ず〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと待ってたのですよ。(笑)
どうぞ、エッセイ、日記、等を読んで感じたこと、思ったこと、疑問を「うるさい」と言われるくらいカキコしてくださいね。(笑)

フル回転の思考が止まるのは人によって違いがあるでしょうね。

今の世の中で「真理」とは何か?を模索しはじめると、さまざまな壁に突き当たります。
多種多様な価値観に振り回され、なにが「本物」なのか判別が非常に難しいですね。
maryさんも、今はそのような迷いの中で途方に暮れてるのではないでしょうか?

「迷い」があると、心の中はさまざまな情報で氾濫しはじめます。

例えば、「A」という人の言ってることは、正しいように思える。
しかし、「B」という人の言ってることも、もっともらしく思える。
しかし、「C」という人の言ってることも捨てがたい。

曖昧な真理(?)は捨てることが出来ません。

そうなると、思考は「A」と「B」と「C」の間を行ったり来たりし始めます。
そうこうしてるうちに、この「A」と「B」と「C」は複雑に絡み合い収拾が付かなくなってきます。

考えれば考えるほどこんがらがってくる。
この状態は非常に苦しいものがありますね。
その苦しさは筆舌に尽くしがたい。

私の人生の中であれほど苦しかった時期はなく、今思い返してもゾッとします。
あんな経験は二度としたくありませんね。

しかし、この状態は「本物」に巡り合うまで続くでしょうね。

では「本物」に巡り合った時、何が起こるのでしょうか?

「一面の真理の集合」である「A」と「B」と「C」が統一性をもって理路整然と繋がります。
その時に、ひっきりなしにアタマの中で渦を巻いてた心の自問自答が止まります。

「真理」というものは創り上げていくものではなく、不要な物を捨てていく途上で立ち上がってくるものなんですね。

maryさんが、このHP「迷宮」を読むことで、心の中の不要なデータを捨て去り、さまざまな情報で混乱した心を整理し静めることが出来るなら、私にとってこれ以上嬉しいことはありません。

質問があったら、どんなことでも遠慮なくカキコしてくださいね。

繰り返しになりますが、この「迷宮」は mary さん のためにあります。(笑)


さて、お待たせしました!!(別に待ってない???・・・・^_^;・・・・)

『アカデミー賞は嫌いだ・読者投稿編・PART-2』 です。

6月30日(金)

死後の世界なんてない!?○

さて、今日は ra-ra さん のカキコを元に日記を進めていくことにしましょう。



こんばんは!
あのー質問してもいいかしら?
わたしには良く解ってないんですよ たぶん・・
運命論と宿命論の違い?
キタローさんの思想的な背景? 
高いステージとかって ちょっと馴染みにくい
オウムみたいで 恐い(笑)
笑ちゃいけないよね マジな話なんだから・・

あのね 前の日記の中の表現に

>私たちの魂は既に存在していて、自らの執着するヴィジョンに流されながら
>自ら母親の子宮に飛び込むのである。

この詩的にさえ感じられる表現 難しい 解ったようでわからない
でも 魅力的表現です。

>この世の現象を論理的に解析すれば「輪廻」という見方を取り入れなければ辻褄が合わ>ないからだ、としか言いようがない。

今の生が、命の連鎖の上にある事は確かだけど 輪廻転生とか 仏教的な表現? 
どう解釈したらよいのか

>、私が「運命を変える事が可能である」と信じているからです

これは 納得です 定められているとしても、自分で決断して 選択して生きているんだと思いたいですね。
運命だから(宿命だから?)しょうがないと流されて生きたくはないです。

>「人間は、結局のところ運命を乗り超えることは出来ないのだ!」
>と思わせるような物語が許せないし、そのような「物語」が「名作」
>と呼ばれることに強い苛立ちを感じてしまうのです。

これも納得です。

>「宿命の破壊」を信じさせてくれるような、愛と希望の単純で明るい物語の方が
>宿命に敗北する名作よりは好きだ、ということです。

これも納得します。

>人それぞれの「個体差」の原因は「生まれる前」にある、と考えています。

こう言われると なんだかなー? そんなものかなー?って感じです。

>、私たちが、生まれて死ぬまでの間の、「目に見える世界」だけが全てである
>という閉じられた視点に立つかぎり「宿命の実相」は見えない、ということです。
 
こんな哲学的表現はワカランです。 実相とはなあに?
私は迷宮に関わる必要のない人間なのかしらね。何故知りたいんだろう
あなたが考えている事を、通り過ぎてしまえばそれでも済むかも知れない
のに 何故かあなたは私を引き戻す力をもっているみたい。



ra−ra さん、こんちは!(^^)V

さて、色々と質問されてますが何から答えていけばいいのだろうか?
とりあえず、私に答えられそうなものから答えていきたいと思います。

「宿命論」と「運命論」との違い?
これは、どちらも同じ意味で使いました。

たとえば「心」と言う言葉も、哲学的な考察や学術的な分野では「精神」という言葉を使う方がしっくりきますよね。
論理的な話のときは「精神」。情緒的・宗教的な話の時は「心」。どちらも同じ意味です。
「宿命」と「運命」も文章の流れでしっくりと当てはまる方を使いました。

なぜ知りたいんだろう?とra−raさんは言われましたが、それはやはり人は誰でも死ぬものだからではないでしょうか?この世に死なない人は存在しません。つまり他人事ではないからでしょう。

私は 迷宮脱出の原則 の中で、目に見えなくて分からない事を「ない」と否定してはならない、「保留」にしろ!と言いました。

私は死後の世界はある、と信じてますが ra-raさん がそれを信じる筋合いはない。(笑)
これは、ra-raさんが自分で考えて結論を出せばいい事ですね。

ただ、気を付けなければならないことは、分からないことや目に見えないことを頭から否定しないことですね。
「死後の世界」のことに関して考えることは宗教的な領域に入ってしまうかもしれないし、一般の人の「宗教」というものに対する拒絶反応の強さはこの話題を避けたい気持ちにさせるかもしれません。

しかし、分からないことを頭から否定してしまうことは、それこそ「迷信」であり「盲信」である、と私は考えます。

作家の宮本輝『海辺の扉』の中で、このような台詞があります。



私、息子を育てているうちに、とても素朴な疑問に突き当たって、そこから動けなくなりましたの。息子が五歳になったころでした。

この子は、どうしてこんな体で生まれたのだろうって。(注・先天性脳性麻痺)

私、理科の授業のとき、生徒たちに、原因のない結果なんて存在しないって教えましたの。そのために、簡単な電池を使っての実験を子供たちにさせました。

この世の中の事象には、全部、原因があるって。

これは、物理学の基本ですものね。

たとえば、ここにあるお皿が動くためには、目に見える力にせよ、目には見えない力にせよ、何かの力がないと動きませんでしょう。

種をまかなければ花は咲かない。

電気という目に見えないエネルギーも、こんな原因から生じるんだ。
この小さな電池の中のしくみも、空の温度や雲や気流や気圧なんかの、いくつかのエネルギーのしくみを科学的に小さくしたものなんだ。
私、生徒たちにそう教えました。

徳ちゃんがいじめたから中村君が泣いたんだ。
中村君が泣いたのは、徳ちゃんがいじめたという原因があるんだ。
原因のない結果なんて、この世の中に決してないんですよって。

そのとき、私、どうして人間は、生まれながらに差がついてるのだろうって考えたんです。

豊かな土地に生まれる人もいる。
貧しい土地に生まれる人もいる。
不具で生まれる人もいる。
五体満足で生まれる人もいる。

美人に生まれる人もいれば、不器量な顔立ちで生まれる人もいる。
王様の子供として生まれる人もいれば、乞食の子供として生まれる人もいる。
そんな人間の生まれついての差にも、原因がなければならない。

人間についてだけ、原因と結果という単純な法則が適用されないのはおかしい、私、そう思ったんです。

それで、どうして、私の息子は、こんな体で生まれたんだろう。

その原因は何だったんだろうって、それこそ憑かれたように考えたんです。



死後の世界がなければ、当然「前生」もない、ということになる。

しかし、今の私たちにはそれを見ることは出来ない。
ただし、この現実の世界を見て推論を立てる事は出来ます。
そしてそのヒントはこの生きてる現実の中にあるはずです。

つまり、[ 死後の世界 = X ] として方程式を解くようなものですね。

死後の世界は「ある」かもしれません。「ない」かもしれない。
しかし、少なくとも「ある」か「ない」かのどちらかひとつには違いないでしょう。

仮に「死後の世界は存在しない」としましょう。
その時は、いくら私が「ある」と言っても「ない」という事実は変えられません。

逆に「死後の世界がある」、と仮定します。
そして、それを前提にして、ここに「俺は絶対に死後の世界など信じない」と言う人がいたとします。
しかし、いくら「ない」と信じても「ある」ものは消えません。

つまり、「信じる」「信じない」は自由でも、「ある」「ない」を自由に変えることは出来ないのです。

私に 「ra-raさんを引き戻す力がある」 とは、なんて嬉しい言葉でしょう。^_^;
是非「引き戻って」下さいね。(笑)

死んだ後はどうなるのか?を考える事は、とても大きな意義があると私は思います。

ついでに・・・・『今週の言葉』も掲載しましょう。(笑)



★★今週の言葉★★

彼がこの私を何十年も執念深く恨みつづけたように
 彼の父もまた、巡査に逆恨みをつづけ、七十五、六歳
 になって、なお復讐を企み、わざわざ住まいを移した。

 「蛇は蛇を産みよる」

 熊吾はそうつぶやき、〈子は親を選べない〉という言葉には
 大きな錯覚と誤謬(ごびゆう)があるように感じられてきた。

 蛇が蛇を産むのではなく、蛇とならざる得ないものは
 蛇を親とする意外に生まれる術(すべ)はないのだ。

 〈子は親を選べない〉ではなく
 〈子は親を選んで産まれてくる〉のだ。

 もしそうであるとするならば、世の中の、医学や科学では
 いかんともしがたい難問の多くが解けていくのではあるまいか。

        【 宮本輝・著 『流転の海』 より 】