お茶 エッセイ 掲示板


5月6日(日)

なんとなく・・・・

みなさん,こんにちは!
またまた御無沙汰してしまいました。 (何度ご無沙汰すれば気が済む?・・^_^;・・)

更新の間隔が空くときは「近況報告だけでも・・・・」という約束もほったらかし・・・・・
いやあ,弁解の余地もなにもありませんね。

今までなにをしてたのか,って?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・

なにもしてません。^ ^;

えーと,ではちょっとだけ経過報告。

4月23日〜4月28日の一週間は,それこそ身を粉にして働いた。
その間の睡眠時間の平均は4時間以下。
4月28日。仕事が終わった時は最高の気分だった。

「やった〜!やっと社会復帰できたぞぉ!」・・・・(笑)・・・

そんな気分だった。

しかし,甘かった。^_^;
「最高の気分」の味わい方を間違えた。

それからの一週間はひたすらダラダラの毎日。
かと言って,別にあちこち遊び歩いたわけではない。
だいたいそんな金の持ち合わせなどないし・・・(笑)
それにもともと私は,一般的な行楽に全く興味がない。
一度新宿に出掛けただけで,その他の日は部屋でウダウダ・ダラダラの日々。

ほんとうに な〜〜〜んにもない 日々。

なんとなく目が醒めて,なんとなく腹が減って,なんとなく飯を食べて,ふと気が付くと日が暮れて,なんとなく眠くなって寝る。
そんな日が一週間続いた。

この一週間で私はとことん疲れた。
「楽」だったけど,ほんとうに疲れた。
仕事してる方がずっと楽だ。
私が今,こうして更新してるのは,もしかすると明日仕事が入っているからかもしれない。
それに,明日には「48」になるし・・・^ ^;
まったく「性懲りもない」自分にかなり焦っている。
学習能力ゼロだねえ。

情けなくて腹が立ってくる。

しかし,考えてみると自分に腹を立てるのも間違ってるような気がする。
自分に腹を立てるのは「自分はこんなはずじゃない。」と思ってるから。
現実の自分が「こんな」であることを認めようとしてない証拠。

自分に腹を立てるのは「逃げ」だろう。
自己嫌悪も現実逃避の一種。
自己嫌悪の中にはどこかに「甘い陶酔」がありますよねえ。

どこかで自己嫌悪することで「救い」を求めている。
なぜなら, 自分を見つめるよりずっと「楽」だから。

なんとなく一日が過ぎていく。

ところで,「なんとなく」 って なんだ?

はっきりしていることは,「なんとなく」の中に「更新」の二文字はなかった。

うーむ!今日はほんとうの「迷宮日記」になってしまった。^ ^;

で,あまりにも久しぶりの更新なので  おまけ!(笑)

アカデミー賞は嫌いだ(番外編・・?・・)

映画・「ヒマラヤ杉に降る雪」を観た。

いい映画だった。
面白い映画でもある。
感動して涙も出た。

しかし・・・・・

この映画の監督は以前「シャイン」でアカデミー賞をとっている。
いや,別に「アカデミー賞は嫌いだ」のエッセイを書いてるからアカデミー賞を獲った監督に難癖をつけてやる!などと考えているわけではない。
これは「高級な映画(?)全般」についてのお話。

真実や真理を求めようとする人の中には,その答えを哲学や宗教,もしくは科学,そして文学や映画にそのヒントを見つけようとする人も多いだろう。 その求め方というのは人それぞれだろう。
文系の私は(・・・と一概には言えないか?)文学や映画にそれを求めた時期もあった。
しかし,それは無理な注文だった。
文学や映画というのは所詮は娯楽だ。
楽しみながら真実や真理に辿りつこうなんて虫が良すぎた。
いや,真実や真理の探求自体は楽しい作業ではあるけど,巷に多く出回っている娯楽の中にはない,と言い換えた方がいいかもしれない。

おっと,映画・「ヒマラヤ杉に降る雪」に話を戻そう。

この映画の中にこんな言葉がある。

この世は偶然が支配する。支配できないのは人間の心だけだ。

うーーむ!なんだか カッコイイ言葉ですねえ。

しかし,ちょっと待てよ!と言いたい。

確かに一見,この世は偶然が支配しているように見える。
確かに一見,人間の心は複雑怪奇でコントロール不能のように見える。
しかし,これは全く逆だ。

支配することのできない人間の心が偶然を作っているだけである。

この世に偶然は存在しない。
一見「偶然」のように見えるだけだ。

偶然に見えてしまうのは,私たちの目が曇っているからだ。
この世に必然性のない偶然は存在しない。

さらに言うなら,自分の心をコントロール(支配)することは難しいが,決して不可能なことではない。

原因があって結果がある,という因果律をアカデミー賞作品や文学者はあまり好きでないらしい。

いわく

そんなに簡単に割り切れてたまるもんか
現実はもっと混沌として複雑なんだ

というわけである。

混沌や複雑が好きなら勝手にすれば?というしかない。
孤独と絶望に酔いたければそれもいい。
しかし,そんな陶酔はいつまでもつづきはしない。
それは, いつしか本物の絶望にとって替わる。

映画・「ヒマラヤ杉に降る雪」は良質の映画だと私は思う。

色んなことを考えさせられたし,この世における深い洞察も含んでいる。
しかし,だからこそ 「この世は偶然が支配する」 などという重大な嘘は許せない。

もしかすると,映画の中の「この世は偶然が支配する」という言葉は逆説的な意味合いを込めて語られたものかもしれない。しかし,私にはそうは受け取れなかったし,もしそうだとしても,人によってどうにでも受け取れる曖昧な表現は問題だ。

これらの一見カッコイイ言葉は,私たちに何の解決の糸口も与えてくれない。
結局のところ

すべては どうしようもないんだよ。

と言ってるのと同じだ。

この世が一見,複雑で混沌としているように思えることは認めよう。
しかし,それは色んな要素が絡まり合ってるからそう見えるだけであって,「原因と結果」の単純な因果律に変わりはない,と私は考える。

 簡単なものをわざわざ複雑にして喜んでるようなこんな言葉に出会うと,私は無性に腹が立ってくる。
これは,数学の問題を解く時にわざわざ遠回りしているようなものである。
論理的に整理されてない解答式ほどダラダラと長くなる。
正解は限りなく単純だ。

混沌(カオス)を愛してはならない,と私は思うのだ。
「破滅の美学」に酔うことは,巧妙に仕掛けられた心理的「罠」に嵌ったも同然である。

多くの真実の中にある重大な嘘。
これは見抜くのが困難であると同時に非常に危険だ。




5月19日(土)

携帯電話考(Part 1)

私は電話が苦手である。
電話はいつでもこちらの都合におかまいなく鳴る。だから,こちらから電話するのも気が引ける。自分の都合が気になる分だけ相手の都合も気になってしまう。
それでも,電話は必要である。
電話がないと「迷宮」の更新ができない。(笑)

携帯電話も持っている。
私の携帯電話の使い途は「待ち合わせ用」と「メール」である。
待ち合わせの時の携帯電話はまさに「持っててヨカッタ!」である。
お互いが携帯電話を持ってれば 「じゃあ,新宿で昼過ぎに会おうか?」・・・
こんないいかげんな約束でもOKだ。

携帯電話のメールはもっと便利である。
リアルタイムでメールが届く。
手が離せない時はとりあえず無視できる。
そんなわけで,PCのメールはほとんど使わなくなった。

私の携帯電話料金が3000円を超えることはほとんどない。
周りには一万以上の人がゴロゴロいるが私には信じられない。
3000円でも充分に高い!

中学生の息子に携帯を貸したら八万円の請求書が来てひっくりかえりそうになった,という話もある。

私が今の携帯電話を買う時に店員に尋ねたのは

「いちばん基本料金が安いのはどこ?」
「辞書が充実しててメールが打ちやすい端末は?」

この2点。

そこで最も安い Tu−ka のファースト・プラン=1980円にした。(もうすぐ,ファースト・プランは廃止になるそうだ。既に申し込んでる人は継続できる。)
メールは最初 ez-web にしてたが,あまりに使い勝手が悪いので「 E-meil・sky message」にした。

基本料300円・送信3円/一通(全角64文字迄)
受信は無料(全角192文字まで)

え?送・受信の文字数が少なすぎる?
キー・ボードならともかく携帯の数字ボタンで100文字でもかったるい。
受信で1000文字も読んでたらそれだけでバッテリー切れになりそうだ。

数年前まで,『半角カタカナ・20字/10円』だったことを考えれば,全角・漢字・64文字を3円で送信できるなんてほとんど 奇跡 。
それに,ダラダラと長くなりがちな文章を簡潔にまとめる訓練にもなる。
64文字もあれば充分である。

古池や蛙跳びこむ水の音
これなんか,たったの11文字だよ!

携帯で Web閲覧 なんてする気も起こらない。
あまり便利さに囚われすぎるとおかしなことになってくる。

その昔(10年前くらい)写真に凝ってたことがある。
しかし,あまりに凝りすぎて,「いい写真」を撮ることの目的はどこへやら,いつのまにか『カメラ・マニア』になってしまいそうになったことがある。

車はとりあえずA地点からB地点に高速で移動できればいい。
カメラはとりあえず写ればいい。
携帯はとりあえず繋がって通話とメールができればいい。
デザインやブランドや機能は二の次である。
ところが,うっかりすると,二の次はメインにすり替わってしまう

人間というのはどんなものにも節操なくハマってしまう。
いつでも,本当に大事なものを意識しつづけるのはとても難しい。
それだけ,気を逸らし,誘惑するものが多すぎるからだ。
それは,私にしても例外ではない。

もともと私は「携帯小物」には目がない。
モバイル・パソコン,携帯電話。 その昔はポケット・ベル。
説明書には端から端まで目を通す。
ハマりやすい性格なのである。

こういう性格は「マニア」になり,いわゆる「オタク」になりやすい。
要するに楽しいヒマツブシ,ということなのかもしれない。
どこかで日常に退屈してるのだろう。

「Docomo」 にこだわる人。
「折りたたみ」にこだわる人。
「着メロ(16和音以上)」にこだわる人。
「カラー表示」(256色以上)にこだわる人。

こだわりだしたらキリがない。
だから,私は意地でも「TU-KA」「着メロ(単音)」「モノクロ表示(1色)」で満足するぞ,と思うのである。

ちょっと醒めた目で自分を見つめてみれば,こんなことにハマるのはやはり
ばっかじゃない?」と思うからである。

いっそのこと,携帯電話を持たない方がいいかも,と思う時もあるが,とりあえずこの料金だったら問題ないかな,と思っている。
欲望を拡大するのは簡単でも引っ込めるのはなかなかムズカシイ。

私は「新し物好き」である。
これは,「もっと便利でもっといいもの」という欲望の際限のなさの象徴でもある。
「オタク」のほとんどはこのパターン。

かと思えば逆パターンもある。

朝日新聞(5月17日)に,映画監督のゴダールが タイプ・ライター12台を買い込んだ 記事が載っていた。彼はインター・ネットや電子メールの知識は皆無で全く関心がない,とのこと。

「これだけあれば(タイプ・ライター12台),私の存在が尽きるまで付き合ってくれるだろう,と思ってね。」
と言ったそうである。

人はどんなものにもハマれる。(笑)

次回更新携帯電話考(その2))は,土曜深夜2時頃です。

携帯電話考(Part 2)

私の携帯電話は通話においては受信専用である。
携帯電話でこちらから発信して通話することは余程の緊急時以外はない。
喫茶店などでは,あちこちで携帯電話が鳴っている。
みんな面倒臭がりになってるのかもしれない。
公衆電話を捜すのも面倒だし,実際のところ 
「公衆電話←→携帯電話」より「携帯電話←→携帯電話」の方が通話料が安かったりする。

テレビ・ドラマの影響もあるかもしれない。
ドラマの主人公がカッコヨク携帯電話で話してるのを見れば自分もカッコイイような気がするのかもしれない。
公衆電話で話すのはダサイ,と思ってるヤカラもかなり存在しているような気がする。
携帯電話じゃないと電話した気にならない,という人だって現にいる。(もしかして,電磁波中毒?)

私が携帯電話を持っているのは主に「メール」のためである。
だから,私のは携帯電話ではなく「携帯メール」なのである。
いや,携帯電話のメールはリアル・タイムで届くから「文字電話」と言った方がいいかもしれない。

それにしても,コミュニケーション手段としての「メール」の浸透率というのはすさまじいものがある。
今や,「電子メールって切手貼るの?」 などと言っても誰も笑わない。(笑ったあなたはかなりオクレテル!)
これは,メールが流行った,と言うより日本人が求めていた「心地いい距離感のコミュニケーション手段」がメールにあった,と言った方がいいかもしれない。

「サラダ記念日」で知られている 俵 万智 がこんなことを言ってる。



不思議ですね。
前は電話って,すごく間接的なコミュニケーションという感じがしてたと思うんです。
たとえば編集者の人とも直接会うのが基本で,ファックスや電話は間接的な感じでしたし。でも,いまは電話は “濃いな〜” と思いますもん。(笑)

なるほどね。
まあ,私は昔から電話は“濃いな〜”と思ってたけど。

人と人が知り会うまでには色んな障害がある。
相手の心に接触するには色んな手続きが必要である。
相手と「知り合う」というのは大変である。
異性の場合はもっと面倒である。

女の子にいきなり声をかければナンパになる。
女性が男性に声をかければ逆ナンパになる。
その点,メールは自分の心にも相手にも比較的負担が少ない。

手紙なんかも相手に対して負担は少ないかもしれない。
しかし書くのが面倒,字が下手だと出しにくい,ある程度の文章力も必要になる。
いや,それよりも前に相手の住所を聞き出さなければならないから論外かもしれない。

ところが,メールだと住所を知らせる必要もなければ顔さえ知らせなくていい。
ことに携帯メールであれば  「元気ぃ?(^_^)v」  ですむ。
おまけにリアル・タイムで相手に届く超速達。

しかし,一方で 「こんなに楽でいいのかなあ」 とも思う。
自分にも相手にも負担がないということは,言い換えれば  「自分も相手も何も変わらない」 と,いうこと。
そりゃ,極論だよ!という人もいるかもしれないが,それでもお互いが変わるまで時間がかかることは間違いない。 みんな,ちょっと臆病になってるのかもしれないね。そして,私も臆病なんだろう。

ふれあいを強く求めながら,一方でふれあいを怖がっている。
考えてみればおかしな話だ。
それは,人それぞれに理想のふれあいの形が違うからだろう。

街中を歩いててこの頃やたらと耳に入ってくる歌に 「明日があるさ」というのがある。
その昔 坂本九 が唄ってた歌のリメイクである。
この歌,歌詞を聞いてるとイライラするくらいにナサケナイ。
好きな女の子に声をかけることも出来ずに,でも 「明日があるさ」 という男の子のお話。
こんな曲が流行るのも,みんなが臆病になってる証拠かな,と思ってしまう。

ところで,この「明日があるさ」の最後の歌詞は,声をかけることが出来てハッピー・エンドと思いきや,結局声をかけることも出来ずに,でも「明日があるさ」でおしまい。
なんじゃ,こりゃ?

「明日があるさ」と言ってるかぎりこの男の子に「明日はない」ことくらい誰でも分かる。

ん?
この曲がヒットしてるのは誰も分かってないから?
・・・・まさか,ねぇ?

蛇足ながら 一言。

やらなければならないことを先延ばしにするな!

これは,妥協癖の強い私の座右の名。

私にとって 「明日があるさ」 は禁句なのである。^ ^;