「論理」ということに異常にこだわるひとがいる。 それは、論理や言葉に対する疑惑として現れる。 実際、わたしもよくいわれる。「論理的だよね」と。 だが、それは違う。 ひとつ言わしてもらえれば、わたしも、義兄弟も、けっして「論理」のひとではない。 これは、ニーチェ然り、太宰然り。 掲示板でも、そんなことを書いてるひとがいたね。 正直モノ氏曰く: |
文章書くのが上手くなった人(上手い人も含め?)って、なんか、自己理論で話しを完結させられるし、それでもって、他の人(普段あまり考えない人)も納得させられるって、分かっているから、かなりイヂワル出来るんですよね。(かなり腹立つ事有り)理論で丸め込まれた人はどうなってしまうのだろう。 中身のない会話しか出来ない彼は死んでしまうだろうな・・・ |
ここで書かれていることがね、そもそも論理とはどんなものなのかってのを語ってると思う。 論理は少なくともわたしにとっては道具だってこと。ゼロのところから論理を組み立て、何か結論に達するなんてタイプでは到底ないのだ、わたしは。 論理は道具。ひとつの仮説だが。ちなみにわたしは「直感」だよ。もしあるとすれば。 その「直感」に従っているだけ。 論理はつねに訓練しなきゃなとは思っている。 わたしにとっての論理は自分の直感を自分に納得させるためにある。 でもね、実際、彼が言うように、悪い意図を持って自己論理に引き込んで他の人を丸め込むことなんて幾らでも出来るわけ。 それでは聞くが、「自己」論理以外に何がある?その質に優劣はあれども。 それを越えたらもはや論理の領域ではあるまいとも思う。 彼の言うね、 「理論で丸め込まれたひと」ってどうか、って問題だけれども、結局はそのひとの「ポケット」だと思う。 要は、論理で生きて行かなきゃいけないひとなんて実際のところ、ごくわずかだよ。むしろ特殊な部類にはいるだろう? 論理でなきゃ生きていけないひとって本当に可哀想なひとだよ。 「だって、楽しいからいいんじゃない?」 これが最強でしょうが。どうしたってかなわないよ、論理のひとは。 ほとんどのひとは論理以外にもポケットを持っているはず。 そこでなくても生きていけるし、「まずはじめに」論理の世界で生きようなんてひとはそうそういない。いる必要もない。それは心配する必要はないんじゃないか? ただ、相手のホームグラウンドにたったとき、(論理や言葉で勝負するひとに対して)それら自身に対する疑いをもつ、いや、言ってしまうっていうのは、ある意味ルール違反だし、失礼なことだと思う。 文学を読むとき、言葉というモノに対する根本的な疑いを述べてなんになろう?そこを忘れてオープンマインドになることが必要なんじゃないか? これはどこのフィールドにいるということに関わらず。それが出来なければやめればいい。 他にポケットを持っているんだから。そこでいきればいい。 しかし、一回同じポケットに入っているのであれば、それはどこまでいっても「力」だ。 野球をするのであれば、そのルールを疑ってはいけない。プレイヤーである限り。 いちばんはじめの段階で、オープンマインドな状態で受け取ったのであれば、そこから批判するもよし、否定するもよし。どこまでしようがそこには根本理解がある。 それがなければ、何を言っても根っこが腐ってる。 相手の定義するルールで読んで、おもんばかって、それからだろう。 けだし、「言葉」や「論理」っていうフィールドで勝負しようとするひとってだいたいは弱い、という悲しい事実。 今日のこの日記は、William Carlos Williams の In The American Grain(ゼミのテキスト)を読んでいなかったら 書けなかった。よって、この文章は彼に捧げられる。 |
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