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前回では、魂の落下のプロセスを紹介しましたが いよいよ今回から、本題でもある魂の上昇のプロセスです。 では、魂の上昇とはなんだろう? それは、さまざまな「とらわれ」を外していくことです。 もともと、それ自体において、絶対自由・絶対歓喜・絶対幸福の状態の「真我」が落下する原因になったのは、外的なものに楽しみを求めてとらわれることから始まりました。 楽しみを求めることによって「とらわれ」という重しをつけて落下した魂を上昇させるには、楽しみをひっこめることによって「とらわれ」を外していくしかありません。 言い方を変えれば、楽しみをひっこめることによって、「楽」が増大していくことを悟るプロセスともいえます。 禁欲が快感であることを実感すること、とも言えますね。 楽しみを得ることによって一時的に楽しみが増えたように感じるけど、実際は苦しみの因も増えている。 私たちがいつまで経っても苦しみから解放されないのは、このトリックになかなか気付くことが出来ないからです。 楽しみを求めることや楽しみを得ることが、どうして苦しみになるのだろうか? それは、この世の事象は常に動き、変化しているからです。 つまり、無常だからです。 楽しみを得ることが出来ても、その楽しみが永遠に続くことはありません。 マイホームはいつ地震で壊れるかもしれない。 会社はいつ倒産するか分からない。 愛する恋人はいつ心変わりするか分からない。 友人はいつ裏切るか分からない。 名誉や地位はいつ失墜するか分からない。 自分自身の心も、どのように変化するのか予測がつかない。 それは、病によるものかもしれない。 老いによるものかもしれない。 そして、私たちは必ずいつの日か死を迎える。 おっとっと・・・・・なんだか、暗くなってきましたか?(笑) このような考え方を「悲観的」と言う人がいるが、(私も昔はそう思っていたけど・・・(笑)・・・)これは歴然とした、誰もが認めざる得ない事実であって、悲観的も楽観的もありません。 事実から目を背けても何も解決しません。 いや、むしろ事実から目を背けつづけたことによって私たちの心は迷宮に入り込んでしまったとも言えます。 ところで、私はこのエッセイを「悲観的結末」に向かって展開しようとしてるのではありません。そこのところを信じて、もう少し「悲観的事実(?)」にお付き合いくださいね。(笑) この世の苦しみは、三種類ある。 そして、この三種類以外の苦しみは存在しない、と原始仏教やヨーガでは言われている。 そのひとつは ★本質的な苦しみ。つまり、肉体的な感覚の痛み。精神的な不安や・・・・などの苦痛。 ひとつは ★求めても得ることの出来ない苦しみ ひとつは ★得ているものが、失われ壊れて行く苦しみ と、いわれています。 先に出したマイホームや恋人の例は、「得ているものが失われる苦しみ」ですね。 マイホームや恋人やその他のものに心がとらわれ、強く執着すればするほど、それが失われる時の苦痛も強くなります。 そして「求めても得ることのできない苦しみ」は、みなさんもさんざん経験してるだろう、と思います。今の私で言えば、仕事、お金、体重(?)・・・・・・・・・・・・・・・・・・うーーーっ!きりがない!(笑) 楽しみの裏にある苦しみを知ってしまうと、この世は苦しみだらけですね。 しかし、この世が苦しみの集積にしか過ぎないことを認識することこそ、魂の上昇の出発点になります。 逆に考えると、この世が楽しくて仕方ない人は、魂の落下のプロセスを辿っていることになりますね。 「人生は楽しまなくっちゃ!」と思ってる人にとっては「馬鹿なこと言うな!」かもしれませんね。 まあ、現在の自分の人生を楽しんでる人に対してケチを付けるつもりは私にはない。 「どうぞ、楽しんでください!」としか言えません。 しかし、この世が無常なものである限り、「永遠の楽しみ」は存在しない。 つまり、魂の上昇のプロセスの第一歩は、「永遠の楽しみ」を外側に求めるのではなく、内側に求めようとすることから始まります。 では、そのために何をすればいいのだろうか? いくら考えても分からないことだらけですよね。 文学も映画も哲学も宗教も、その答えを出してくれない。 いや、もしかすると、私たちは答えを見逃しているのかもしれません。 それは、人間という存在そのものが、「真我」の状態からは遠く離れた存在であり、無智を根本としている存在だからです。 とらわれによって構築された私たちの思考回路でいくら考えても正しい答えは出ません。 数学の問題を解く時に、間違った公式を当てはめてしまったら、いくら頭をひねっても問題が解けないのと同じですね。 みなさんは、ソクラテスという哲学者を知ってますよね? まあ、私もあまり詳しくは知りませんが・・・・・^_^; そのソクラテスについて、次のような逸話があります。 |
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「魂(プシュケー)」こそ真の 自己であると考え、街の人々に 「自分自身にとってもっとも大切なものはなにか」 と問い掛け、対話する日々を送った。 デルフォイの神託が 「ソクラテス以上の智者はいない」 と告げたのをいぶかり、その意味を解明するためソクラテスは 「智者」と呼ばれる人達を訪ね歩いた。 分かったのは、ソクラテスのみが、自らの無智を自覚している、という一点だった。 |
この、「無智の自覚」は魂の上昇のプロセスにおいて、非常に重要なポイントになるものです。 究極の苦しみに直面したとき、人は自分の無力さと無智のなかで、自分自身の力だけでこの苦しみを取り除くことが出来ないことを悟ります。 自分自身に対する過信を取り払い、自分より崇高なものに対して素直に心を開いて学ぶ姿勢ですね。 これは、愛明さんが言ってた「あきらめの思想」に近いかもしれませんね。(笑) 私たちは、楽しみを求める方法については山ほどの知識を持ってるけど、苦しみから心を解放する知識については未開の土人なみしかありません。 魂の落下と上昇のプロセスについては、原始仏典の「十二縁起の法」で現されています。その中で、上昇のプロセスの出発点は「苦ありて信あり」と、されています。 |
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