1月11日(木) みなさん,あけまして おめでとう! みなさんはどんな年末年始を過ごされたでしょうか? 今年も10日を過ぎて正月気分も抜けて2001年の軌道に乗った頃かな? 私は,昨日,博多から戻ったばかりで,まだ頭の中に正月気分の欠片が渦を巻いていてカスミがかかってるみたいな気分です。まあ,去年からずっとカスミっぱなしだったような気もするが・・・・。 正月といえば抱負ですね。(←ちょっと無理がある?^_^;) みなさんの抱負はなんですか? 私ですか? 私の2001年の抱負は,頭のカスミを取ること。(笑) 笑っているけど,かなり本気です。 これは,抱負というより決意ですね。 みなさんにも抱負ではなく決意をお薦めします。 「○○できたらいいな」ではなくて「絶対○○するぞ!」ですね。 どちらが目的達成に「効く」かは一目瞭然! 今年は,絶対に毎日更新を達成するぞ!(^_^)v 2001年も迷宮をよろしく! |
1月12日(金) 逆転の逆転 私は喫茶店が大好きである。 一杯の珈琲で5〜6時間は全然へっちゃらである。 喫茶店でボーーッと,あれこれとりとめのないことを考えるのは私にとって至福の時間。 よって,注文した一杯のホット珈琲は1時間につき 「5〜6分の1」 づつ減っていく計算になる。 当然,ホット珈琲は 「ホット珈琲味のアイス珈琲」 になる。 うっかり飲みすぎて下げられそうになったら,お冷やを継ぎ足してアメリカンにする。(←セコイ ^_^; ) しかし,頭の中だけで5〜6時間も考えていると,同じ処をグルグルと輪廻のように回りだす。 その自衛策が「書く」という行為である。書くことで「考え」を体系立てて整理することができる。 それでも,考えが行き詰まって発展しなくなるときがある。 そんな時に役にたつのが逆転の発想である。 ある人に言わせると逆転の発想というのは「屁理屈」ということになるらしいが私はそうは思わない。 例えば,貴方が誰かに虐められたとしよう。 大抵の人は虐めた相手を憎むだろう。 私も過去に色んな人に虐められてきた。特に会社組織の中では往々にして,他の社員の見せしめの為に生贄(いけにえ)が必要なときがある。私は生贄になりやすいタイプの人間らしくてよく虐められた。 私はマゾではないので,虐められて喜んだりはしない。しかし,虐められたから虐め返すというようなことはしなかったようにおもう。喧嘩する度胸がない,と言われればそれまでだが,それ以上に根本的な解決にならないと思うからだ。 虐められると色んなことが見えてくる。 それは,自分の内面的なことであったり,相手の性格だったりする。 思わぬ人が助っ人になってくれて,その時を境に友人になった人もいる。 虐められる環境にいると,考える気力が湧いて来る。 考える力の源は,今の苦しみから脱却したいと思う心だ。 もし仮に今は誰一人として自分を虐める人がいなくても,人間に欲望と煩悩がある限り,人は人を憎むことで心の安定を量ろうとする。この世は憎む人と憎まれる人で構成されている。未来に於いて自分が憎まれないという保証はどこにもない。なにより,今の時代は正しいことが憎まれる時代だから尚更である。 憎まれても平静でいられる心の訓練は早く済ませておいた方が無難である。 ここで,逆転の発想が出来ると,苦しみが消えることがよくある。苦しみが苦しみになるのは,苦しみを「悪」と勘違いしてるからである。 逆転の発想がもてはやされるのは,現代の価値観が既に間違った方向に逆転してるからである。 ややや!またもや,ややこしい話になってしまった。 こんな話をするつもりじゃなかったんだけどなぁ。^_^; えーーっと,なんだったっけ?あ,そうか!あれだ! ・・・・・・・・・・うーーん!・・・・・・ とりあえず,明日にしよう。(笑) |
1月13日(土) 陰謀だぁ! 私は,あれこれと考えることが大好きだ。(大好き特集だな。^_^;) どうして好きなのか?と問われると,色々な理由があるわけだが,私の答えに最も近いと思われる記事を紹介しましょう。 随分前に拾った記事なので,どこのHPだったか忘れてしまいましたが,思い出したら改めて紹介します。(笑) |
近所の森林公園のベンチにすわり、昔のことをあれこれ回想していたら、知人によく言われた言葉を思い出した。 「きみは哲学や思想を勉強しているようだけど、そんなことをしていて楽しいの? 実生活では何の役にも立たない哲学や思想を勉強するなんて悪趣味だよ」 とよく言われたが、その言葉を聞くたびに、 「なぜ自分は哲学や思想の世界に入りこんだのだろう?」 と自問した。 哲学や思想の世界に入りこむ理由は、人によって違うと思う。 ある人は、知的な好奇心から哲学・思想の世界に入りこんでいる。そして、たとえば、難解な哲学的概念や言葉・論理のパズルを解くことによって、一種の知的なゲームを楽しんでいる。またある人は、より精密な世界理論や社会理論を構築するために哲学・思想の世界に入りこんでいる。またある人は、他者に対して自己の優位性を示す手段として哲学・思想を利用している。またある人は、自己顕示や自我拡張の手段として哲学・思想を利用している。またある人は、自分の仕事や研究に必要だから哲学・思想の世界に入りこんでいる。 それらの理由で哲学・思想の世界に入りこむことには、それなりの妥当性や必然性がある。しかしながら、私の場合は、それらとは違う理由で哲学・思想の世界に入りこんだように思える。 私は、自分がひどくめぐまれない環境で生まれ育ち、自分の人生があまりにも辛く苦しかったために哲学・思想の世界に入りこんだのだと思う。哲学・思想の世界には、苦しい人生をのりこえるためのヒント、より楽しく生きていくためのヒントなどが隠されていると直感していたからだ。 実際に哲学・思想の世界に入ってみて、そのようなヒントがたくさん隠されていた。そのことで、あの直感が間違っていなかったことを確信した。そして、それらのヒントを発見することで、かなり気楽に生きられるようになったし、自分の人生というものを肯定的に考えられるようになった。 私にとって哲学や思想は、実生活で役立つものだ。 |
私がこの記事を読んで最初に思ったことは,思想や哲学は,人生を肯定的に捉え気楽に生きるためのヒントとして活用されることが本来の存在意義に違いない,ということでした。とても健全な活用法ですよね。 それとは別に,何故考えることが有効なのか?と問われれば,私は, 「この世は情報操作されているからだ。」 と答える。 別に私は陰謀論者ではない。 しかし,この世をありのままに見ようとするなら必然的に陰謀論者になるしかない。 例えば,貴女に好きな男性がいて,あの手この手を使って気を引こうとするのだって立派な陰謀だ。(笑) 恋のかけひきも,人間関係におけるかけひきも,見方を変えれば陰謀,と言ったら言い過ぎだろうか? 巷に溢れる商品のCMもしかり,商品の欠点をCMで流す企業など何処にもない。 恋人の気を引くのに,自分の欠点ばかりをアッピールするのは,相当のひねくれ者だけである。 女性に多いウインド・ショッピングは一種のストレス発散だが,もし心の空虚さがなければ買い物でストレスを発散させる必要もない。 つまり,物質至上主義の今の世の中において,商品を売る側にしてみれば,私たちが心の空虚さを抱えて苦しければ苦しいほど都合がいいのである。この世の全ての人が心の安定を達成してしまったら,商品の売上はガタ落ちだ。(笑) 巷の情報に無防備でさらされていると,気がつかないうちに物質至上主義的な発想しか出来ない意識構造になってくる。 なぜなら,心というのは基本的に 「来るものは拒まず」 だからだ。 こうなってくると考えても分からないことばかりが増えていく。 それはそうだろう。 苦しんでるのは物ではなく心なのだから・・・。 そのうち,考えるのが面倒になってきたらかなりの重症である。 友人との会話でも,ありきたりで,常識的で,面白くも何ともない話しか出来なくなる。 残る解決手段は買い物でストレス発散するのみ。(笑) 企業側としては万万歳である。 考える,という行為は,物質主義に偏ってしまった思考回路だけではなく,その他の思考回路を開く行為,と言い換えることもできる。 ややや!またもや,違う話になってしまったような・・・・・^_^; うーむ!・・・・・・・ 明日にしよう!(仏の顔も三度まで?^_^;) |
1月14日(日) 学者という人種 私は,「学者」という人種が嫌いである。(今度は嫌い特集?^_^;) 口ばっかり達者で,立派なことを言ってるわりに人間的な魅力が貧弱な輩が多いからである。 学者やどこかの偉い教授が,時々わけのわからない理屈を言い出すと,喧嘩して理屈で負けそうになった時のように 「口ではなんとでも言えるさ!(ケッ!)」 と,いう気分になるのである。(自分のアタマの悪さは棚上げして・・・^_^;・・) しかし・・・・ 「学者」のどんなところが嫌いなのかを,しばらく,ずーーーっと,考えていると,身近なところで同じタイプの人間がいることに思い当たるのである。 これって,俺?・・・・^_^;・・・ 嫌いな人の性格的要素というのは往々にして,自分の中にも存在していることに,またしても気付かされて ガックリ!どうやら私も「学者タイプ」の人間らしい。 私はアタマで納得したら,それだけで全てが分かったような気分になって安心してしまう悪い癖がある。 この悪い癖は,今でも治ってない。(笑)←笑い事じゃない!・・・^_^; 仏典によれば 瞑想できなくなった修行者が生活のために経典を編纂したのが「学者」の起源である。 としているが,全くその通りだな,と近頃実感している。 つまり,学者というのは,辛い修行を厭がる怠け者なのである。(笑) たとえれば,「学者」というのは一流音楽評論家で,「修行者」は一流作曲家,みたいなものかな?(適切な比喩かどうかは自信がない。・・・^_^;・・・) 私はここで,才能がうんぬんという話をするつもりはない。要は,実践者であるかどうかの話ですね。 私が思うに,仏教的表現をするなら,究極の学者は同時に修行者と言えるのではないだろうか? 怠惰さによって,ある一定の観念と精神状態の中で安住しているのが学者ですね。 まあ,学者といっても色んなタイプの人がいますから,一概には言えないけど・・・・。^_^; 学者から実践者への脱皮。 これは,私にとって今年最大の課題です。 うーむ!頑張るぞ!(笑)←笑っちゃいかん? |
1月16日(火) 夢と現実 人生はあなたの思った通りになる。 これは,私が精神世界を模索し始めた頃に本の中でたびたび目にする台詞だった。 そして,これはまさにその通りだな,と近頃実感している。 夢は必ず叶う。これは真理である。 こんなことを言うと 「嘘を言うな!俺は全然叶ってないぞ!」 と言いたい人がたくさんいそうだ。(笑) 「夢」といえば,すべてが希望に満ちた素晴らしいものだ,と思いがちだがどっこい 「悪夢」だって夢である。 私たちが,希望に満ちた夢だけを「夢」と思うのは勝手だが,私たちの心は,絶望的な思いも「夢」として認識する。心は, いいとこどり なんてしてくれない。 思ったことは無差別に心の中に情報としてインストールされるのみなのだ。 いつでも,自分の夢の実現を信じて疑わなければ何の問題もないが,信じ切れないところが厄介なところ。 たとえば,「私は歌手になりたい!」と思うのも夢だし「私は才能がないから,歌手にはなれないだろう」と思うのも「夢」に違いない。 そうなると,たとえば 「私は歌手になれる。」 と固く信じて夢見る時間より 「私には才能もないし歌手なんて無理かもしれない」 と固く信じて夢見る(?)時間の方が長かったとしたら,どちらの方が現実化するかは言うまでもない。 夢の達成を妨げる心の要因はさまざまにある。 その,心のひっかかりを取るために人に相談するのもひとつの方法だろう。 しかし,やはり最終的には自分の心に聞いて見るしか方法がないのではないだろうか。 ところが,自分の心というのがこれまた厄介な代物で,自分が本当に何を望み,何が心のひっかかりなのか分からない。 そんな時,私たちに私たちの心のひっかかりを解くキーワードを教えてくれるのが 「夢」(就寝時に見る夢)だと私は思う。 夢を見るときの私たちの意識は,日常生活の中で意識している意識より,もう一段深い意識,つまり潜在意識である。 そこには,もう一人の私がいる。 いや,厳密に言えば,より本質に近い 「ほんとうの自分」 が存在している。 もし,「本当の自分」を知ることができるなら,私たちは多大な恩恵を得ることが出来るだろう。 発明家が,夜明け前に夢によってインスピレーションを得る話はよく聞きますよね。 これは,夢の世界である潜在意識は,普段目覚めている時の表層意識の雑多な観念の壁の向こう側にあるからです。 夢の中で,夢に巻き込まれることなく,「これは夢だ!」と自覚する明晰夢を獲得し,それによって夢をコントロールできるとしたら,私たちは本質的な心から発信される示唆(インスピレーション)を受け取ることが可能になるでしょう。 それと同時に,自分の心をコントロールできるということですね。 ここまで出来たら,もうこれは夢ではなく瞑想!(笑) 今日は,明晰夢の掲示板より『夢見の技法』をUPしました。必見! |
1月19日(金) 日記を毎日更新する。 これは,私の今年の目標である。 なんとしても達成したい目標だが,これがなかなか難しい。 日記の毎日更新,というのは文章のテクニックうんぬんとは全然関係ないような気がする。 どちらかと言えば,心のテクニックに近いようだ。 書きたいことは山ほどある「はず」なのに,PCの前に座った時,「書きたい」という気持ちが湧いてこない時もある。自分が「書きたい」ことがあっても,その書きたいことが文章が読み手に与えるマイナスの影響面を考えると書けなくなってしまうこともある。 HPのアクセスを伸ばすには,毎日更新が必須である,という話はよく聞くし,私もその通りだと思う。 確かに,訪問者が多いに越したことはないし嬉しいことに違いはないが,私はアクセス数を伸ばすことを,それほど重要な事とは考えていないし,極端な言い方をすればどうでもいい,と思っている。 私にとって,最も重要な問題は,毎日の中で,常に自分の心に関するワクワクするような新しい発見や,深い洞察から来る新しい覚醒を得ることかもしれない。 そして,その新しい発見や覚醒は,グウタラな生活からは決して得ることが出来ないことが少しづつ分かってきた。分かったつもりになっていただけで,全然分かってなかったようだ。 どうりで,更新できなかったわけだ・・・・^_^; 読むと元気になるHP。これは,私の目指すHPの形。 今日は,ネットでたまたま見つけた,元気になるHP を リンク集に追加しました。 |
1月19日(金)(その2) 深夜のTVで「NHKスペシャル」が放映されている。 テーマは「遺伝子」。 美しいCGを使った遺伝子の映像は見るべきものがあるが,途中から私は見る気がしなくなってきた。 その原因はダーウィンの進化論である。 「NHK」の科学番組を見るたびに思うのだが,「NHK」の科学番組はダーウィンの進化論が大好きである。 好きなだけなら何の問題もないが,生命や遺伝子を語るとき,「ダーウィンの進化論」を絶対的に正しい前提としているのが気に入らない。 なぜなら,私は「ダーウィンの進化論」を全く信じてないからである。 むしろ,これほど非科学的で無茶苦茶な学説も珍しいとさえ思っている。 人間の祖先は類人猿で・・・うんぬん・・・という解説を聞くだけで私はTVを消したくなる。 つまり,人間や生命が,この地球上にしか存在しない,という大前提そのものに 「へ?」と思ってしまうのである。 類人猿が地球に現れた頃,地球外の宇宙に人間と同等の知性を持った生命体が存在した可能性をゼロと考える,そのあまりに視野の狭い理論に,私はびっくりして開いた口がふさがらない。 それと同時に「NHK」の科学番組も信用できないのである。 学校教育において「ダーウィンの進化論」は,今でも当たり前に正しい学説とされてるのだろうか? 学校の教科書というのは,どこか「NHK的」と感じるのは私だけだろうか? もしそうであるなら,子供たちの発想の枠が狭まり無智化していくのは当然だと私は考える。 |
1月20日(土) 今日は,久しぶりに,掲示板からのレスを元に日記を進めたいと思います。 |
なんと、3連続投稿。
投稿者ひめか HOME 2001/1/20(Sat)
00:59:34 「ダーウィンの進化論」。気が合いますね。(笑) でも、全部一緒の考えじゃないけど。というのも、信仰してるわけじゃないんですが、聖書を勉強した時期があって、あれ勉強すると、自然と進化論を疑ってしまうんですよ。 私は何でも、比較的全面否定ってのをしないので(あくまでも比較的…であって、絶対じゃないですが)、進化論が全部本当だとは思わないし、全部嘘っぱちだとも思わない。 それは自分が極めた知識じゃないからなんだけど…。 でも、教育の場やNHKとかで「進化論」が当たり前のように扱われているのは、やっぱり、どうかな?って思うなぁ。 ただ、聖書は地球外生物も(私が習った解釈では、の話。 聖書も解釈が宗派みたいので色々あるからねぇ)認めていないんですよね。 だから、何となく、絶対に地球外生物がいる!って断言する案にも全面肯定できない人です。いたほうがロマンティックだとは思うけど。夢がある、というか。 ああ、でも、ロマンティックで言えば、「地球だけが、神様に選ばれた奇跡の星」っていう方が上かもなぁ。 何だか、自分がロマンチストなのか、そうでないのか分からない。(笑) |
ロマンティックじゃないから,「ダーウィンの進化論」が嫌い,という面もあるかもしれない。^_^; 私は,「NHKスペシャル」を見てるうちに,段々と暗い気分になってきました。 それは,やはり「進化論」そのものが生命を偶然の産物として捉えている為なのかもしれません。 「進化論」においては,「精神」や「心」の問題に対してはスッポリと抜け落ちてて,やはり生命を「物質」としてしか捉えていません。 もちろん,生命を目に見える物質として捉えることによる発見を否定するつもりもないし,それはそれで生命に対する一つの重要な切り口であることも否定はしません。 まあ,強く否定したのは演出(?)だと思ってください。^_^; 結局,私が「進化論」に反発を感じるのは,実は「進化論」に対してでなく,現象の切り口の一部である「進化論」を全部のように表現しようとする報道に対してなのかもしれません。 特にNHKにおける,巨額の製作費を投じた科学番組になればなるほど「進化論」が暗黙の了解のように扱われることに強い危惧を感じるのです。 全面否定しない,というひめかさんの姿勢は素晴らしい! さすが,迷宮三連続投稿者!^_^;・・。 物事をありのままに見るためのベースは,やはり 「分からないことは保留」 にする勇気を持つことだと思います。 「現実的なロマンティスト」 大いに結構だと思うなぁ。 妙に偏り過ぎないバランス感覚は大切です。 「きゃあ!私は分裂してる!」 などと自分をいじめたりしないように。(笑) |