エッセイ

5月6日(土)


私は狂ってない

このHPは「心の迷宮」がテーマになってますが、心の迷宮、心の迷宮、心の迷宮、・・・・・とマントラのように唱えても、なんのことかよう分からん、というのが実態ではないでしょうか?
もし、「心の迷宮」を常日頃から実感できてたら「迷宮」になんぞ始めから入ってないからだ。

つまり、私たちは「迷宮」に入ってるのに気が付かないほど「迷宮」に入っている。

「気狂いは、自分を狂ってるとは思ってない。」は真理なのである。

「おまえは狂っている!洗脳されてるんだ!目を覚ませ!」
と、叫んでいる当の本人が狂ってる可能性だって充分にある。

今日は、日頃の生活の中でなかなか実感しにくい「心の迷宮」を、ヴァーチャルに、それでいて、楽しみながら体験させてくれる映画を2本紹介してみましょう。

まぁ、「マトリックス」もそのような映画のひとつ、と言えるかもしれないが、ちょっと娯楽敵要素が強すぎる気がしないでもない。あっちこっちで論理が破綻てるし・・・(笑)
その点では「惑星ソラリス」の方がスッキリしてるかもしれない。(観たのは10年以上前なので内容はほとんど忘れてしまったが・・・・(笑)・・・)

まず一本目は、エイドリアン・ライン監督の「ジェイコブス・ラダー」

私がこの映画を観たのは五年ほど前。レンタルビデオである。
この映画は「ホラー」の分野になるのだろう。
しかし、この映画の中には怪物も出てこなければ陰惨な殺人もない。
コケ脅しの暗闇から「ワッ!」という低俗な演出もない。
ちなみに私は、この「ワッ!」が大嫌いだ。(笑)だって、誰だってビックリしますよね?演出に手を抜いてるとしか思えない。しかし、そんな演出がなくても、とてつもなく怖い映画でした。
いや、「怖い」というより、この映画を観て襲われる感情は、足元に闇がポッカリと口を空けてるような「不安感」です。

そして、もう一本は「オープン・ユア・アイズ」
この映画もやはりビデオです。
レンタル開始は、確か今年の始めだったと思います。「準新作」ってところでしょうか。
この映画については、私がよくいく「パンちゃんワールド」の中で イングマルさん が素晴らしい映画評を書いているのでそれを紹介しましょう。


イングマル furukawa@joy.ne.jp
http://www.joy.ne.jp/furukawa/

スペインから恐るべき才能の出現を予感させる映画が現れました。
監督のアレハンドロ・アメナーバルは25歳でこの作品を撮り上げたのですが、ストーリーテリングが実に巧い。観客の心理を巧みに撹乱する手腕は心憎いほどです。ブライアン・シンガーやデヴィッド・フィンチャーのように観客を欺くことに長けた監督はアメリカにもいるけど、彼らの作品と『オープン・ユア・アイズ』は根本的に違います。単純に騙されたという感覚ではなく、脳髄に突き刺さるような鋭い痛みを伴なう作品なのです。なぜ痛いのか、それは人間の孤独や不安、そして自らの存在の不確かさという普遍的な心の問題を扱った作品だからであり、自分自身にも通じる“心の闇”が鮮烈に描かれているからです。
ストーリーについて具体的には一切触れませんが、この作品を一言で言えば“喪失”の映画だと思います。作品を前半と後半に分ければ、大まかに言って前半で描かれるのは“アイデンティティの喪失”であり、後半は“リアリティの喪失”です。特に後半の意表を突く急転直下の展開は圧巻でした。現実という概念が根底から壊れていく過程が痛切に描かれています。
“リアリティの喪失”とは決して目新しいテーマではなく、例えば『惑星ソラリス』『ビデオドローム』『トータル・リコール』そして『トゥルーマン・ショー』でも、現実という概念を失った人間の姿が描かれていましたね。しかし『オープン・・・』ほど、人間の心の奥に焦点が当てられた作品は今までになかったと思います。冷酷な殺人鬼など登場しなくても、人間の心を真っ向から描けば最高のスリラーが撮れることを、若干20代の監督が見事なまでに証明してくれました。
圧迫感を煽るような画面の構図や、逆光を効果的に利用した絵作り、巧みなカメラワークなど、観客の意識を刺激するように計算された演出と大胆不敵なストーリーテリングは、とても“スペインの新鋭”という言葉だけでは形容できません。とにかくタダ者でないことだけは確かです。
ただ一つ難を言えば、特殊メイクを含めて主演のエドゥアルド・ノリエガの濃い〜顔に約2時間付き合うのはちょっとキツいかも・・・。まあ、スペイン人と日本人の美的感覚の違いでしょうか?


この映画を観るきっかけになったのは、『CUBE』のヴィンチェンゾ・ナタリ監督の

「オープン・ユア・アイズは我々を"人間の心"という最も恐ろしい迷宮の罠に閉じ込める。」

というキャッチコピーでした。

こんなキャッチコピーを読んだら観ないわけにいかない。
「心の迷宮」をテーマにしてる私が、この映画を観るのは使命である。
               
(ただ単に映画が観たかっただけ・・・^_^;・・)

私は『CUBE』という映画をそれほど好きではない。
『CUBE』も同じように心の迷宮を実感させてくれる映画だが、観客を迷宮の中に置き去りにしたままで終わってしまうところが気に食わない。(笑)

私がこの二本の映画を紹介したのには、「心の迷宮」を描いた作品、という以外にもう一つ理由があります。
それは、どちらの作品も私たちを「心の迷宮」のど真ん中に一旦は陥れながらも、決して迷宮の中に置き去りにしてない点です。

心の闇を描いた映画の中には、やたらと抽象的であったり観念的だったりして、監督の方が迷宮に入ってるんじゃなかろうか?と思えるような映画も少なくないわけですが、「オープン・ユア・アイズ」にはそのようなところが微塵もない。
観終わって心がスッキリする迷宮映画(?)bPでしょう。
2時間をラストまで一気に見せられてしまうエンターテイメント性も素晴らしい。
心の迷宮の中を、怖がりながら、同時にワクワクするような知的興奮を伴いながら探索できる映画としてお薦めです。

映画にはいろんな映画がある。
楽しいだけで後は何も残らない映画。
考えさせらるけどスッキリしない映画。

私の友人には「楽しいだけの映画は害になる」という持論を持ってる人が多い。
私も半分は賛成である。しかし、半分は分からない。(^_^;)
それは人によって「楽しい」の基準が違うからだ。

ただ言える事は、私たちは私たちにとって害悪しかもたらさないものを好きになったり楽しいと思ったりする。
という事だけだ。

だから100%ピュアなものに対して私たちは強い拒絶反応を起こしてしまう。
とはいっても「100%毒」では、誰も近づかないだろう。・・・もし「好き」だとしたら最悪!(笑)

かといって40%ピュアでは足りない、やはり最低でも51%以上はないとね。

もちろん、この「迷宮」のHPは51%以上にしたい。(笑)
一気に100%にしろ?
それは、無理です。
皆さんはついていけない、と思うし、私はもっとついていけない。^_^;)

70%くらいでいかが?(笑)

5月26日(金)


怠けモード

近ごろ調子が悪い。とは言っても別に体調がすぐれないわけではない。

「アタマ」の調子が悪いのである。(笑)

忙しいわけでもない。

何故なら、先月の20日で、前に勤めていた会社を辞めたからです。

すぐに次の職場を見つけるつもりだったのだが

「ちょっとだけ、のんびりしよう」

と思ったのが大間違い!(笑)
気がついたら「完全怠けモード」(?)に入ってしまい、またもや動けなくなってしまいました。
われながら、なんて「懲りない奴」なんだろう、と呆れるばかりだ。

その間、何をしてたか、といえば「なにもしてない」というしかない。(^_^;)

あ、そうそう「免許の更新」をしました。私は優良運転手(つまりペーパードライバー)なので6年ぶりの更新です。6年前は何をしてたっけ?と考えてしまいました。
いろんな事があったような気がするけど過ぎてしまえば一瞬ですね。

それにしても、「小学校1年〜小学校6年」の6年間はあれほど長かったのに、40代の6年間はその10分の1の長さにも感じられないのはどういうわけなんだろう。

ある本の中で歳をとりボケてくると、朝の歯磨きの時

「あれ?さっきも歯を磨いたような気がするなぁ・・・・」

と思ってると

「あ、そうか!あれは昨日のことか」

・・・なんてことになる、と書いてあったがゾッとする話ですねぇ。

前回は「怠けモード」だったので、せめて「怠けモード」くらいに抑えておかないとヤバイ。^_^;

さて今日は、私に更新パワー(?)を与えてくれた(笑) ra-raさん の嬉しいカキコを元に日記を書いてみました。


遊びに来たよ  【投稿者】 ra-ra 【投稿日】2000/05/19/(金) 午前12:13:30 

キタローさん今晩は

私 PC 初心者なんですよ 自分のパソを買って1年弱、ネットデビューして半年 少しわかりかけた頃、テクニカルなことに挑戦してみたくなる頃、そこで写真をUPしてみたり JAVAスクリプトだかアプレットだか訳もわからずHOW TO本片手に練習したりしてみました。

そこで いろんな人のページを見ていて気ずいたの(主婦のネット人口の増加は目をみはるものがあります)ビジュアルにこだわるか、いかに美しく着飾るか、 会話を楽しむか、内容で読ませるかでしょう そんなこと考えてたらここに来ちゃいました 

話しは全く変わりますが キタローさんて ホントに結婚経験ないんですか? 何故だろう? 相手を思い遣り過ぎてしまうのかな? 息子も結婚しないんですよ
昔でいえば身を堅めるお年頃なんですけどね 適齢期なんて死語ですけどね いつしても良いし しなくても良いと思ってます 人のプライベートなことに こんな

ところで立ち入ったらいけませんでした でもこんないい男を放っとくなんて 女性も見る目が無いんだなって思いますよ 

今日は主人のことを日記にちょいと書いたんで・・ 結婚ってやっぱり いいもんですよ
1人より 二人の方が映画見たって楽しいもんね

なんだか 纏まりないこと書いちゃった おやすみ


ra−raさんこんちは!Y(^^)

私のPC歴も、まだやっと二年ちょっとですよ。

ネットデビューも去年の10月ですからra−raさんとはそれほど変わらない事になりますね。
私は全然勉強してませんね。(笑)
それでも、「迷宮バナー」を作ってくれたM君の助けを借りて、トップページに「JAVAアプレット」を使ってみました。

多分私はこれからもテキスト中心、文章のみでやっていくでしょうね。
ただし、面白く読ませるための演出として「JAVA」や「写真」を効果的に使えたらいいかもしれませんね。

私は、かなりの面倒臭がり屋でして、いまだにOSは「Windows 95」です。(笑)

〉 考えてたらここに来ちゃいました 

考えてたら「迷宮」に来た。なんて嬉しいですね。

これからも、考え事があるときは「迷宮掲示板」の前で考えて下さい。(笑)

「考える」とはどういうことか、と「考える」と・・・・(^_^;)・・いうなれば、余計なデータで混乱してフリーズしたアタマをとりあえず白紙に戻す。
つまり「再起動」みたいなものですね。

考えてみたらコンピューターとアタマはよく似てる。(笑)

一度にいろんな事をやり過ぎるとフリーズしてしまうし、世の中にはいらないデータやウィルス付きのプログラムもたくさんありますね。
そんなときは片っ端からゴミ箱に捨てるかアン・インストールしないと私たちのアタマも正常に動かなくなります。

》キタローさんて ホントに結婚経験ないんですか?


ホントです。(笑)

私の場合は、他人と違って元々結婚願望、というのが希薄だったみたいです。
私の両親も離婚してるし、物心ついたときから両親のケンカばかりを見てきたせいかなぁ。
あまり結婚生活に夢を見れない、というのもひとつの原因かもしれませんね。

元々結婚願望、というのが希薄だったみたいですね。
「結婚」というのは、どうも私に馴染まない、というか幼い頃もそうだったし今でも不思議な制度だなぁ、と感じます。
今の時代ほど既成の価値観が揺れ動いてる時代はありませんね。
男女の愛情の終着点=「結婚」・・・の図式も崩れかけてるのかもしれません。
昔の「常識」も時代が変わればあっけなく「死語」になってしまいます。

でも、ありきたりの「常識」が通用しなくなって「本当の価値観」が求められているという見地に立てば、この混沌とした時代も大きな意味がありそうです。

結婚に関して言えば、相手を思いやる、というより、ただ単に面倒臭いだけなのかもしれません。(笑)
気楽にやりたい、束縛されたくない、という気持ちも強かったかな。

ところで私の両親の結婚生活は別として、私の友人は比較的幸福な結婚をしている人が多くて、ra−raさんと同じように
「おまえも早く結婚しろよ!結婚はいいぞ。」
と言います。(笑)

確かに気楽で束縛されない、というのは決して「楽」な事ではない、と近頃は感じますが、やはり
「今更なぁ・・・・」
という気持ちが強い。(笑)
この先、好きな人が出来て一緒になりたい、と思っても多分フツーの「結婚」という形にはならないでしょう。(だったら、どんな形?と言われると困るが・・・(^_^;)・・・)

》人のプライベートなことに こんな ところで立ち入ったらいけませんでした。

どんどん立ち入っても大丈夫ですよ。答えたくない質問は「黙秘」しますから・・・・(笑)

「こんないい男を放っとくなんて・・・・」

この誉め言葉のパワーに押されてやっとHP更新が出来た、と言っても過言ではありません。(笑)
ありがとう。とても嬉しいです。

でも、やっぱり誉め過ぎです。(苦笑)

自分の言葉と自分の行動とのギャップには悩まされ続けてます。
そのギャップをいかに埋めていくかが課題ですね。

要するに私はかなり「アタマでっかち」です。(笑)
このHPはそのギャップを埋める作業の一環です。

つまり表面的にしか理解していない事柄を深く理解するため。
さらには、深く理解した事柄を実行に移せるようにする為の一里塚。

そして、それをこのような開かれた場所で、みなさんの覚醒のヒントを提供できる
かもしれないホームページというシステムは本当に素晴らしいと思ってます。

纏まらなくてもどんどんカキコしてください。
久しぶりの長いカキコはとても嬉しいです。(笑)

へたに纏めようとするから何も書けなくなってしまうんですよね。
私もra−raさんを見習いたい。(笑)
掲示板は基本的に「つぶやき」「言いっぱなし」の場所ですから「愚痴」だって一向にかまわない、と思いますよ。
それに、考えなきゃ「愚痴」だって書けません。
書いてるうちに何かが分かったら儲けものですね。
アタマの中だけで考えてると同じところをグルグル回ってしまいます。
「書く」という行為はそれだけでひとつの効用があります。

さて、これを更新してる間に ra-raさん のカキコが入ってしまいました。

これは、まめに更新しろ!という「お告げ」ですね。
これについては、次回の日記で(なるべく早くに)考えていきましょう。

5月27日(土)

死に至る病

さて、今日も ra-ra さんのカキコを元に話をすすめてみましょう。


人がなくなりました  【投稿者】 ra-ra 【投稿日】2000/05/24/(水) 午前11:48:22 

お忙しそうで何よりです
また昼間に星空を見てます きょうは 気持ちが少し沈んでます 1年前まで同じ事務所で仕事をともにしていた方(男性)のお嬢さんが先日亡くなられました
32歳で肺がんだったそうです

 彼は自分の病気のことは話してくれたんです この3月にも腎臓が悪くて入院したりしました。明るくて 冗談が好きで お話好きのどちらかというと「おじさんおばさん」こんな表現わかりますかおじさんなんだけど おばさん度数が高めの人だったんです 心の中に何か抱えているようには見えませんでした否 見せないようにしていたんだと思います 

不治の病だったので人に知らせても心配や迷惑を掛けるだけだから・・と 葬儀まで総て終えてから報告がありました。

葬儀も家族だけで済ませたので本人の希望でしたから弔問もお花もお受けいたしませんとのことでした

葬儀のあり方は個々の考え方でよいのですが、その前のホスピスにいたころのことを周囲の誰にも気付かせなかったことに私はやるせない思いを抱きました 

私と主人は例の電波障害のマンションに事務所を移転したりして距離が物理的に出来ていたのですが、心理的には近い物を感じ続けていました。

 人は自分の苦しみを内に抱いて他人には知らせないタイプと、苦しみも喜びも分かち合おうよって私のような単純型があっても当然ではありますが、 なんで彼が娘さんのことに限って何も漏らさなかったか悲しい気持ちでうけとめました 若い最愛の娘が不治の病で苦しんでいる 娘もそんな姿を誰にも見てほしくない 彼は会社では馬鹿なことを言って皆を笑わせる 辛かったんだろーな これから 彼は彼の奥さんはどうなってゆくんだろう私は今までと同じように 冗談に付き合ってればいいんだろう 静かに何かが変わっていくのを見ているしかない 

http://www.geocities.co.jp/Bookend/3486


私が彼の立場だったらどうしてただろう。

やはり、職場の人には言わない、と思いますね。
言ってもどうにもならない。ただでさえ暗く落ち込みそうになるのに、職場にその話を持ち込んで同僚が知ることによって職場まで暗い雰囲気になったら彼もやりきれない、と思いますよ。

自分の抱えている苦しみは苦しみとして、職場の人間関係の中では明るく振る舞うことで苦しみに押しつぶされそうになる心のバランスをとってたのだと思います。

しかし、これも単なる推測でしかありません。本当のところは当の本人に聞くしか分かりようがないし、たとえ聞いても彼の本当の気持ちは誰にも理解できないでしょう。

私たちが他の人に対してしてあげられる事ってなんだろう、と考えると何も出来ないんじゃなかろうか、と思います。
それが出来るのは、相手がして欲しいことと、自分がしてあげたいことが一致する時だけです。

ただ、この事をきっかけとして「死」というものを考え、同時に「生きる」という意味に対してほんの少しの答えが見つかったとしたら、きっとその時にこそ彼と話す機会が生まれるかもしれませんね。

身近な人の死を前にした時、私たちは生と死の実相を垣間見ることが出来ます、普段は意識しない生と死を意識する。これは覚醒への第一歩ですね。

もし、死者を供養するとしたら、この死を自らが意識することこそ最大の供養だと私は思います。

「生、老、病、死」。この四つは生きるもの全てに平等に訪れるものです。
どんな人も、この四つを避けることは出来ない。身近な人の死に直面すると、私たちはこの当たり前の事実を思い出します。

「死に至る病」という言葉があるけど、その観点に立てば、事故死であれ、病死であれ、老衰であれ同じだと言えるかもしれません。
死に方の違いだけで「死ぬ」ということに変わりはない。
早く死ぬか、遅く死ぬか、安らかに死ぬか、苦しみながら死ぬか、その違いだけです。

しかし、「死」に対して私たちはどのような心で対処していいか分からない。
それを例え表面的にさえ受け止めることが出来る人がどれだけいるだろう?
特に、事故死や早すぎる病死、何かの事件に巻き込まれての死に身近に直面した時、私たちはそれを「不幸」と呼ぶ。
そして、そのように感じる事は人間として仕方ないのかもしれない。
アタマで割り切れても、そうそう心はついていかないからです。

釈迦牟尼の「輪廻転生談」の中で、最愛の息子が死んだ時でさえ彼はひとつぶの涙も流さなかった。という話があるが、全ての現象を見切っているわけではない私たちにそんな真似が出来るはずもない。

だから、私たちが物事を真正面から受け止めるには長い時間が必要になります。
それは一年かもしれないし、十年かもしれない。もしかすると一生かかってもそれが出来ないかもしれない。

しかし、それが出来ない限り、誰にでも平等に訪れる「死」は、いつまで経っても“不幸”であり“苦しみ”であり続けるしかない。