エッセイ

4月2日(日)

才能がない!

街を歩いている時、コンビニに入った時、喫茶店に入った時、どんな時でも音楽は耳に入ってきます。

音楽は文章やビジュアル以上に人の感情を動かす媒体ですね。
パソコンショップに勤めている私の友人が仕事に集中しよう、と思ってるのに店内のパソコンのディスプレイに映る映画の画面が気になって集中できないでいたそうです。ところがある日、スピーカーの故障で音が出なくなってしまった途端、全く気にならなくなった。おかげでその日はいつもより仕事に集中することが出来たそうです。これは、音楽に限らず、音が心に与える影響ははかり知れないものがある、というひとつの証明と言えます。たとえば映画を観ていて、もしそこに音がなかったとしたら、と考えてみればよく分かるかもしれない。

マトリックス」を、もし音無しで観たとしたら・・・・
うーーーん!試す気にもならないくらい、つまらなさそうだ。(笑)

巷に流れる様々な音楽の中には、アタマの中にこびりついて離れなくなる音楽がある。
そのほとんどは、歌謡曲であることが多い。それは街中に流れている音楽の大半は(90%以上?)は歌謡曲だからだろう。

近ごろは宇多田ヒカルもナリを潜めて(笑)、もっぱら今の私のアタマにこびりついて離れない曲は

Mr.Childrenの「口笛」と、サザンの「TUNAMI」

(それにしても「Mobile Gear U」の変換辞書は貧弱この上ない、「くちぶえ」くらい一発変換してくれよぉ。なにしろ「口笛」が変換候補にない。^_^; )

アタマのなかで鳴り響いている曲、というのは、自分が執着しやすいパターンの曲でもあるのだが、宇多田ヒカルといい、サザンといい、Mr.Children といい、私の潜在意識はよほど大衆的に出来てるらしく、がっかりである。(笑)

私はハモリが好きなので、特に「口笛」は曲が流れると
とぉ〜〜く・・・とハモっている自分にハッと気が付く。(^_^;)

高いパートのハモリはすぐ取れるけど、低いパートは聴き取りにくい。
あんましテキトーにハモって嘘を覚えるのもイヤなので とうとう BAND SCORE まで買ってしまった。
ほとんど病気である。(笑)

私は他の人よりマトモにハモる事が出来るが、決してハモリの才能があるわけではない。
以前ハモったパターンのものだったら一発でハモれるけど、そうでないものに関しては相当に練習しないとハモれない。たった一小節のハモリのために3時間をカラオケボックスでひとり淋しく練習したことは数え切れない。他人が見れば気味悪がって逃げていくような図ですよ、これは・・・。(^_^;)

才能というのはなんだろう?

たとえばパソコンだって半年くらいじゃ使いこなせないし、フリーズしても何がどうしてフリーズしたのかさえ分からない。何しろ、何が分からないのかさえ分からないのだから・・・・(^_^;)
でも、毎日パソコンを触れていれば一年も経てばなんとなくわかるようになる。
カンが働くようになる。この「 カン 」こそ、経験の蓄積の賜物ですね。

才能というのも一種の「カン」、つまり経験の蓄積の賜物だ、と思っている。
ただ違うのは、非常に長い期間に渡る絶え間ない集中と、努力の経験の蓄積。
そして、その「記憶」 (・・前生の記憶も含めて・・) を 「才能」と言うのだ、と私は考えている。

そういう見地に立って考えると、才能のある人に向かって

才能があっていいわねぇ!

と言うのは大変失礼な言い方だろう。

彼(彼女)の才能は与えられるべくして与えられたものに過ぎない。

「天が彼(彼女)に才能を与えた」

などという言葉は大嘘である。

天から降ってくるものなど、この世にもあの世にも(?) ない!( 断言。^_^ v )

 
4月12日(水)

かもめが怖い(笑)

みなさん!お久しぶりです。(^_^;)

とうとう、未更新の新記録を作ってしまいました。
このままでは、「週刊迷宮」どころか、月刊になってしまう。(T.T)

以下、自問自答。(笑)

仕事は忙しいのか、って?

ハイ、忙しいです。(笑)

更新できないほど?

いえ、それほどでは・・・・・(^_^;)

やる気ないの?

そ、そ、・・・・・そんなことありません。(←シドロモドロ)

かもめさんが怖くないの?

も、も、も・・・ものすご〜く怖いです!!(;-_-メ; ←怯えてる・・・・

だったら、もう少し真面目に更新した方がいいんでないかい?

ハ、ハイ!!もう少しマメに更新します!!

よろしい!

と、いうわけで・・・・(どういうわけ?)もっと真面目に更新します。(笑)

東京の桜は先週の日曜日が見頃のピークだったようですが、みなさんは花見に行きましたか?
私は普段から、初詣を始めとする、いわゆるお約束の日本恒例行事(?)には全く関心がないのだが、今回はhannaさんやその仲間たちと先週、行って来ました。
hannaさんとはプライベートでも時々逢うことがあるのだが(hannaさんの名誉のために言っておくと、私はhannaさんの彼氏ではありません!(^_^; ・・・)ネット上でも交流があるし、これってオフ会?(笑)

久しぶりに酒を飲んだら、(ワインとビールのちゃんぽん。)アタマが痛くなった。
う〜む、私の酒量の限界はビールコップ一杯。
集まったのは私を含めて七人・・・・だったと思う(笑)。
hannaさんつながりのダンス仲間とhannaさんの彼氏のトランペット仲間(?)。

どの面々も一癖も二癖もありそうな人たちばかりでしたね。
もちろん私だけが癖のないノーマルタイプ。(笑)
でも、そんな面々にも関わらず不思議なことに、ガンガンに自己主張型の人はひとりもいなくて、もう一度会って話したくなるような気持ちのいい人達ばかりでした。




4月19日(水)

花見とカラオケ

なんだか色々な思いが頭の中を脈絡もなく通り過ぎて全然まとまらない。

わたしは、きちんとまとまらない話は嫌いだ。
しかし、まとまるまで待ってたらいつまでも更新できないので、まとまらないままにまとまりのない話をまとまりなく書くことに決めた。

これこそ、まさに「迷宮日記!」(←とうとう、ひらきなおったぞ・・・(笑)・・・・)

とりあえず、花見の話から行ってみようか?(笑)

その前に、hannaさんのカキコを紹介しましょう。


日記更新ご苦労様!  【投稿者】 yukino 【投稿日】2000/04/13/(木) 午後07:07:03 ハンナです。お花見の前にカラオケに行ったんですよ。
キタローさんと、私の彼氏との「夏の終わりのハーモニー」、そしてキタローさんとさる女性の(曲名わかんない、難しい曲です)はすばらしかった。
初対面のかの女性陣もあたたかい人たちでしたね。
お花見の方は4文字熟語の山手(えんえんと順番に出し合う)ゲームで、
結構初対面どうしでもやっているうちに個性が出てきて、
仲良くなれました。
謙虚でホント、ハンナ以外はいい人たちでしたね。
今度は少人数で、もう少しゆっくり話しましょう。
よろしく。
ra−raさんのページってかわいいですね。

http://www.hello.co.jp/~yesnono/


もちろんhannaさんは、とってもいい人です。(笑)

花見も面白かったけど、前座のカラオケもとても楽しかった。なにしろ唄うことに飢えてましたから・・・(笑)
私とさる女性が唄ったのは
玉置浩二と高橋真梨子の「貴方が生きた Love Song 」です。
久しぶりに唄ったのと、相手の女性がうますぎたので緊張しましたねぇ。
ところどころハモリのコード進行を間違えてしまいました。
ハモッたつもりなのにユニゾン (同じメロディー) になってたりして・・・・・・幸い、誰も気が付かなかったみたいだけど・・・(気が付いてた?・・・^_^;・・・)
でも、久しぶりにハモリの楽しさを思い出しました。
hannaさんともハモッたけど、私はハモリを「ど忘れ」、hannaさんはhannaさんで「うろ覚え」・・・・(笑)・・・・。
「どんな曲だったっけ?」
「これでよかったかしら・・・・・」
と試行錯誤して、やっと思い出した頃に、「ジャ〜〜ン!!」と、曲が終わった。(笑)
これは、次回の課題曲ですね。カラオケの途中では時折 hanna さん の彼氏の即興のトランペット演奏まで付いて、なかなかゴージャスなカラオケでした。帰り際に次回の課題曲を出し合って解散。
ぜひ、今度はhannaさんともバッチリとハモリをキメてHPで流しましょう。(笑)


花見での山の手線ゲーム

私はこういうのは大の苦手です。
きっと、気の利いた台詞でも言おうと思ってるのだろう。
やたら緊張して頭の中は真っ白になる。

まして、対人恐怖症の気がある私には辛いゲームだった。(笑)

さて、話は変わって(今日は話があっちこっちに飛びます・・・^_^;)

皆さんは「動物占い」を知ってますか?
「動物占い」・・・・語感からすると、かなりいい加減でテキトーな占いのようなきがするが、これがどうしてどうして本格的な代物である。もちろん、占いの結果を100%信じるほど私は酔狂ではない。でも、自分の性格と、性格の成り立ちを知る上で、なかなか面白い。

私と hanna さんは「」だが、「虎」の性格診断の中に

器用貧乏
バランス感覚抜群

というのがある。

動物占いは全部で12種。
それぞれの動物にはそれぞれに特有の性格があるのだが、それが他の動物の性格と重なることはない。

そして、この「器用貧乏」「バランス感覚」も「虎」の専売特許である。

よく考えると、この「器用貧乏」と「バランス感覚」は同じ事である事に気が付く。

つまり

「器用貧乏」=「何でも、そこそこ器用にこなす」=「いろんな事に興味を持つタイプ」=「いろんな側面から物事を見ることができる」=「全体が見える」=「バランス感覚がいい」

ということなのである。
一方では何でもそこそここにこなせるので、特別に秀でたものが身に付かず全てが
「 そこそこ 」のものばかり。
何もかもが中途半端の金にならないガラクタばかり、ということになる。

「バランス感覚抜群」というのは、つまり「目配りがが利く」、つまり「目移りしやすい」、つまり「気が多い」と言うことでもある。
以前の日記で、言葉は立体的な広がりがある、と書いたが、ひとつの言葉には色んな意味が含まれている。

私は、自分自身の「器用貧乏」にはウンザリしている。それは何故か?

答えは簡単!貧乏だからである。(笑)

そこで私は考えた。「器用貧乏」があるなら 器用裕福(?) があってもおかしくないではないか?

またまた話はコロッと変わって・・・・・・

hannaさんやその仲間たちと花見をした時に集まったのはいろんな職業の人達。
しかし、その一方で即興ダンサーであったり、バレエダンサーだったり、トランペット吹きであったりする。
彼等はその道ではプロ級の「技」を持ってる人達だ。
詳しい話は聞かなかったが彼等の生活は決して裕福ではないだろう、と思われる。(本当のところは知らないが・・・・)私の周りにはその類の人が非常に多い。バンドをやっていたり、劇団員だったり・・・・。これらの人の中には、本業(会社の正社員も含む)を別に持ってる人もいれば、踊りや音楽をメインに本業にして、それだけでは食べていけなくてアルバイトをしている人もいる。つまり、彼等も器用ではあるがあまり裕福ではない。
しかし、私にはそんな彼等は「器用貧乏」には見えなかった。(彼等自身がどんなふうに考えているのかは別として・・・)
まず第一に彼等には世間の垢にみれたような疲れや濁りが極端に少ない。スッキリしている。そして、元気で明るい。その明るさも見せかけの軽い明るさではなく、明るい。
その人に本当の明るさがあるかどうかは、深刻でハードな話をさせてみればすぐ分かる。
本当の意味で「明るい人」は、一般の人が「暗い話題」と呼んで避けるような話をしても決して暗くはならない。静かに明るい(?)と、言ったら変だけどそんな感じかな?・・・・わからん?(笑)

彼等はあまり自分自身のことは語らない。どちらかといえば「聞き役」タイプの人が多かったような気がする。他人の話をきちんと聞く耳を持ってる人は見てて気持ちがいい。

話をまたコロッと「戻し」て・・・・(どうです?迷宮に入ってきました?)

彼らの中のひとりが

”専門バカ”にはなりたくない。」

と、言ってたがその思いは他の人達も同じだったに違いない。
彼らには常に他の人間が見えている。そして、他のために自分が出来ることは何かを常に考えてる人達に思えた。
自分だけのマニアックな世界に埋没することなく常に他を見据える感覚。これは一種のバランス感覚、ともいえる。(自画自賛しようとしてるわけではない。・・・(笑)・・・)
そして、これは逆に考えることもできる。
つまり、他の人間のことを考えない人には真のバランス感覚はない。
フムフム!バランス感覚も悪くないじゃないか(←やっぱし、自画自賛・・・(笑)・・・・)

問題は「バランス感覚」と「器用”裕福”」の両立。と、いうことになるのだが・・・・

う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!

絶対にまとまりそうもないので次回にしよう!^_^;

きっと、次回もまとまらずに中途半端になると思うが・・・・

結局のところ、私はナニが言いたいのか分かった人は教えてください。(笑)


4月27日(木)

人混みに流されて・・・


私たちの心は常に揺れ動いている。
そして、何もせずにそのまま放っておくと迷宮に入ってしまう。
どうして、そうなってしまうのだろう?

私のハモリのレパートリーの中に 「卒業写真」 がある。荒井由美の曲で知ってる人も多いだろう。(知らない?・・・(^_^;)・・)
考えてみれば、この曲を初めて聞いたのはもう20年以上前になります。
20歳前の人はまだ生まれてなかった、ということになりますね。
やれやれ、いつの間にこんなに時間が過ぎてしまったのだろう、愕然とするばかりです。

知らない人のためにサビの歌詞を紹介しましょう。

人混みに流されて 変わってゆく私を
あなたは ときどき 遠くで 叱って

私がある歌を好きになる時は、まずメロディーから入る。
ほとんどの人がそうかもしれないけど、私の場合はそれが極端ですね。
これは、私が小さい頃、父親がクラッシックを好きで歌詞のついた曲を聞かなかった為もあるかもしれませんね。この習性はいまでも変わっていません。
だから、私の歌は歌詞に対する思い入れが全くといっていいほどない
カラオケで歌う時も歌詞の内容を考えて唄うことはあまりしません。

ただ言葉を羅列しているだけ、と自分でも思うし、何十回、何百回歌っていても歌詞は覚えてないことの方が多い(笑)

時々歌詞がなければいい曲なんだけどなぁ、と思うこともよくある。
メロディーそのものが、もう既に歌詞以上のものを表現しているのに、どうして余計な歌詞を付けるのか分からない、などと思ってしまう。

みなさんは、ドヴュッシーの「月の光」を知ってますか?(かもめさんは知ってますね。・・(笑)・・)
私はこの曲を初めて聴いた時、なんとも言い難い感動に包まれました。
当然、曲名を知りたくなりました。
そして、それが「月の光」と聞いて、なんだかガッカリした覚えがあります。
何故なら、私が「月の光」を聴いてイメージしたのは「月の光」ではなかったからです。

私が歌詞をすぐ忘れてしまうワケが分かっていただけたでしょうか?(わからん?・・・^_^;・・)

実際、洋楽で英語の歌詞の内容が分からなくても私たちはその曲を好きになることができる。
それは、曲そのものが持つ世界や、歌手の声から感じるその人の精神性に惹かれるからでしょう。
しかし、そんな私でも

人混みに 流されて 変わってゆく私・・・・

の歌詞を聞いた時は「ガツン!」とくるものがありました。
「卒業写真」は、私が歌詞に感応した数少ない「歌詞の付いた曲」(?)です。

さて、ここで問題です。

人混みに流された私は、悪い「私」になるのでしょうか?
それとも良い「私」になるのかな?(笑)

ここで「良い人!」と答えた人。
私の話はここでオシマイです。(笑)

「悪い人」と答えた人に質問します。
どうして、そうなるんですか?

これは、少なくとも私たちが、私たちを取り巻く身近な情報を、何の疑問もなく無条件に信じて、それを取り込むならば、私たちは人間として最低の精神的な気高さをも失ってしまうことを心の奥では知ってるからだろう、と思います。

TVを見てアタマが良くなった、なんて話は聞いたことがありませんよね?
新聞の情報もしかり。
ニュースも、まるでシナリオに添って事件をチョイスしてるように思ってしまうのは私だけでしょうか?
そこで、事実を知ることは出来ても、その斬り口はいつも紋切り型で、何一つ実態は見えてこない。私はいつも、下手なドラマを見せられてるような気分になります。

しかし、これはただ単に周りの環境のせいだけには出来ない部分があります。
需要がなければ供給もない。
私たちが望んでいるからこそ、この汚れた情報に囲まれてる、とも言えますね。

今、私は 「五嶋節・母と神童」、 という本を読んでいます。

五嶋節と、その娘のみどりは世界的なヴァイオリニストでもあるわけですが、その音楽性の高さが世界的に認められた後でも、この母子は長い極貧の生活を強いられていたそうです。
技術的な問題だけではなく、高い音楽性、というのは高い精神性も伴わなければならないわけですが、それでいて、食うにも事欠くような生活を強いられるこの社会、というのは一体なんだろう?と私は考えてしまいました。

しかし、だからといって私はここで社会批判を延々と述べるつもりはない。
そんなエネルギーがあったら私は他のことに使いたい。(笑)

この本の終わりの方にこんな言葉がある。



「ヴァイオリンをやめるならやめるでいい。自分で見限るならね。それはお姉ちゃんも弟もいっしょです。いやになればやめるだろうと思います。」


ヴァイオリニストとして生きていくなら、どんな音楽家が理想か?という問いに対して。

「私が知ってんのはヴァイオリンしかないわけですけど、そのなかではクライスラーのような人間になってくれたらいいなあと。夢ですね。知ってる人にきけば、舞台に上がってるだけで優しさのアピランス(外見)があった。やさしい、あったかい顔してはった。クライスラーは作曲したんですよ。作曲も編曲も総合的にできた。それは至難の技なのにやすやすとできた。あんなに素晴らしく弾けて、全部持っていた人でしょ。憧れて当然の人で、ヴァイオリンを弾かなくても、横にきて気持ちのよい人。そうなってくれたらあの子しあわせだろうなあと。まず、それだけでもね



踊りをやるひと、トランペットを吹くひと、演劇をやるひと、いろんなひとがいる。
でも、その最終目的が、踊りがうまくなるため、演技の上達のため、トランペットの名手になるため、ではないはずだ。
人はそんな目的のためだけで生きていくことなどできない。


なぜ踊るのか?なぜ歌うのか?なぜ演じるのか?なぜ吹くのか?
そして、人々はなぜそれを見るのか?聴くのか?

私たちがほんとうに求めている最終地点は、それだけの方にあるのかもしれませんね。

音楽については、いろんな人がいろんな定義付けをしている。
1995年尾高賞を受けた作曲家の藤家渓子は、音楽を次のように定義している。

「精神のけだかさに気づかせてくれるもの」