エッセイ

7月11日(火)

太宰治 について


ちょっと間が空いてしまいましたねぇ。(笑)

今回の日記は、リンク集の追加についてのお知らせです。

「 Solid State Survivor の 大地さん 」

「 Skunk Hour の 愛明さん  」

が、相互リンクしてくれることになりました。
「大地さん」と「愛明さん」は“義兄弟”だそうです。(笑)おふたりとも、太宰治のファン。

ところで、私は「アカデミー賞は嫌いだ」でも書いたように太宰治は苦手。
しかし、私が苦手とする作家のファンがリンクしてくれることは、とても嬉しい。
どうして、こんなに嬉しいのか分からないくらいに嬉しい。

今回は、「大地さん」と「愛明さん」の相互リンクを記念して(笑)特別に、私の友人であるソース君とのチャットを中心に進めていきたい、と思います。



キタロー:今日はですね、さっきまで「モス・バーガー」で150円のコーヒーとマンゴープリン(笑)を食べながら書き貯めた文章があるんだけど、ここで発表(?)していいですか?

ソース君:
どうぞ!!

キタロー:
では、6連発でいきます。(笑)読み終わったら、サインをください。

ソース君:
長い?だったらメールのほうがいいかも?

キタロー:
大丈夫です。そんなに長くありません。短いですよ。

ソース君:
じゃ、どーぞ!

キタロー:
@私は、20代の前半頃から30代後半くらいまでそれこそ死ぬほど迷った経験があって、つまり「心の迷宮恐怖症?」なわけです。そんなわけですから、たとえば映画を見るにしても小説にしても見た後や読んだ後、心が明るくなって元気になるものしか読みたくなかったんですね。

ソース君:
うむ。活力源としての文学・・・・

キタロー:
A見た後、読んだ後、絶望的になったり迷いが深くなるようなものは近づきたくなかった。(笑)で、例えば太宰治なんかは、それこそ晩年は迷いの中にのたうちまわりながら死んだような印象があって、まさに「暗い」・「迷宮の権化」みたいな感じですよね。【「大地さん」「愛明さん」ゴメンナサイ!間違ってたら教えてください。^_^;】すると、当然、あまりお近づきになりたくないわけですよ。

ソース君:
うむ。

キタロー:
Bでも、ノーテンキなものばかりを見続けると、それはそれで底の浅さにウンザリする。そんなわけで、たま〜に「暗い」のも読みたくなって、太宰治なんか読むんだけど、多分「斜陽」だったような気がするけど、読んでみると「あー、ダメだ、やっぱし」とかって思うわけです。実際に私にはチンプンカンプンだったし、こんなの読んでたらきっとアタマがおかしくなるって思った。(笑)

ソース君:
底の浅さにウンザリ・・・・・、これはよく解る。

キタロー:
Cで、今回「相互リンク」を希望してきた「大地さん」と「愛明さん」はどちらも太宰治のファンなんです。【そうですよね?】私は、そのことがとても不思議な感じがしたんですね。そして、もっと不思議だったのは、昔だったら「太宰治のにおい」のするものの近くにも寄りたくなかったのに、「大地」さんや「愛明」さんが近寄って来た(笑)のが嬉しくてしかたがないんですよ。それは、自分と同じ価値観を持ってる人が相互リンクしてくれることより嬉しいんです。多分、ひとつの原因としては私の中で迷いが吹っ切れた部分せいもあるかもしれないけど・・・。

ソース君:
?そのうれしさはどこからくるんだろう?

キタロー:
D一体、どうして嬉しいのか自分でさっぱり分からない。その気持ちは優越感からくるものかなぁ・・・とも思いました。つまり「俺は太宰治に勝ったぞ!」と・・・(笑)・・・・でも、どうやらそんなものでもなさそうなんですね。

キタロー:
E一体、「同じ価値観」てなんだろう?と思いました。「同じ価値観の人同士じゃなければわかりあえない。」などという言葉もただの観念で、ただの思い込みで、幻影にすぎないんじゃないか、と思ったわけです。もしかすると、人と人はもっと幅広く根っこの方では繋がっているのではないか。そんな可能性が嬉しかったのかもしれません。

キタロー:
おしまいです・・・・・(笑)・・・・駄文でした。^_^;

ソース君: @ですが、落ち込んで「鬱」なときに、明るいものは受け入れないものでしょう?

ソース君:
暗い、というのとはちがうのかな?

キタロー:
え?そうなんですか?私はそんなことはなかったですよ。それとも、私の場合は「鬱」ではないのかなぁ・・・・・暗いものは絶対避けたかったです。

ソース君:
死ぬほど迷った経験というのは、「暗い」というのとはちがいます?

キタロー:
うーん!私の場合は、世の中にある矛盾が許せない、というか絶対的な法則性を見つけられないことが一番の暗くなる原因だったような気がします。それと、暗くなる事自体が何か間違ってるような気がしてました。 暗いところに真理があるはずがない、と思ってたのかなぁ・・・

ソース君:
「苦」の種類が違うのかな?分裂、混乱タイプでしょうか?

キタロー:
考えすぎて、何が正しくて何が間違ってるのかが分からないことが一番の苦しみだったような気がします。

ソース君:
じゃ、「心」自体は明るそうですね。

キタロー:
え?そうなのかなぁ。もしかすると・・・・・そうかなぁ・・・・ワカリマセン。^_^;

ソース君:
私の経験では、もう何もできない状態。・・・これが一番絶望的でした。

キタロー:
そう言えば、私の場合は「何もできない状態」、というのはなかったような気がします。とにかく、あがきつづけて、あがけばあがくほどわけがわからなくなる、というか・・・

ソース君:
何もできない状態でも楽しめる娯楽。それが『太宰』であり、『つげ義春』だったわけです。

キタロー:
「何もできない状態でも楽しめる娯楽。それが太宰であり、つげ義春だったわけです。」へえーーー!ちょっとオドロキです。私はそんな発想をしたことがありません。と、いうことは私の場合「何もできない状態」というのはなかったのかなあ。

ソース君:
結局苦しくて、文学・芸術どころではない。しかしそんな中でも、例えば「つげ義春」などはホントに楽しめる。楽しめるというか、心が一時的に沈着し、楽になりましたね。

キタロー:
なるほどねぇ・・・・・・。なんか、私には経験もないし、違った世界、って感じがする。

ソース君:
たぶん「つげ」は精神不安症があって、それをマンガを書く事で超越していたのでは・・・・・とおもうのです。それがマンガの中でも表れていて、読者を楽にさせるのではないでしょうか?

キタロー:
うーむ!私が好きな「宮本輝」も過去10年以上にわたって「神経不安症」という病気で(現在も完全完治の状態ではない。)一日に何度となく襲ってくる死の恐怖と闘いつづけたそうですが・・・。

ソース君:
ただ「つげ」のマンガを一生見つづけるのは無理なんで、結局は自分の苦しみは自分でなんとかしないと。

キタロー:
なんだか、人間の心の複雑怪奇さに呆然となりますね。

ソース君:
暗闇の迷宮の中を手探りで出口を探すとなると、複雑な方法論が出てくると思います。暗闇脱出には灯りが必要で、まずはそれからだと思います。

キタロー:「灯」というのは、まぁ「心の明るさ」ということになるわけですが、私はこの「心の明るさ」というのは大きなポイントであり、また盲点でもあると思うんですよ。一生懸命考えれば必ず真理に到達する事ができるような錯覚に陥るんだけどなかなかそうは簡単にはいかない。

ソース君: そうですね。ちゃんと考えてるつもりでも、いつの間にかエゴに基づいて考えてたりするわけです。
結局、自分自身を自分だけで変化させるというのは非常にむずかしいと思います。

例としてパソコンの場合ですが、
Cドライブをフォーマットする時に
「Cドライブをフォーマットするためのソフト」は、
Cドライブから立ち上げる事はできないわけです。
Dドライブ、Eドライブまたは外部接続のソースOなどから
そのソフトを立ち上げなければCドライブはフォーマットできません。

私の考えでは人間も同様で、他者との関係にあって自分自身を変えていくしかないと思います。健全な感情、人間的な良心を持って正しく他者と接していくことが、自分を変える最善の方法だと思います。
しかし、個人の中だけで完結しようと考えるので、むずかしくなるのではないでしょうか。

キタロー:
ということは、「健全な感情」「人間的な良心」をもって他者と接していくことが
「灯」ということになるのかな?

ソース君:
そういうことになると思います。

キタロー:
「大地さん」や「愛明さん」は、私とは全く違った角度で心を見つめてるような気がして、彼等の言葉は私の観念を色んな形で崩壊してくれるんじゃないだろうか、という予感がするんですよ。

ソース君:
観念が増え、混乱が増す可能性もありますよ。

キタロー:
それは怖いなぁ(笑)芯になる部分はしっかりと確保しておかないといけませんね。

ソース君:
意識には透明性が重要で、優秀な観念よりも大切だとよく言う話はよく聞くけど、私も同感で、実際そちらのほうが、何倍もむずかしいんです。

キタロー:
いやぁ、まったくそのとおりだと思います。優秀な観念も「観念」に変わりはありませんもんね。

ソース君:
優秀な観念は「もっと優秀な観念」が出てきたらおわりなんです。ところでどうして「太宰に勝った」と?

キタロー:
あはは!気になります?「太宰に勝った!」というのは、少なくとも頭の中での迷いは吹っ切ることが出来たぞ!ってことかな?でも、結局は勝ったことにはなりませんね。太宰の抱えてた迷いや悩みは、私の迷いや悩みとは全く異質なものであることがソース君と話しててよく分かりました。

ソース君:
あ、わかりました。いや、その意味では勝ってるんでしょうね!あの手の作品の危険性は「闇の中でも落ち着けるぞ」と納得してしまう点にあります。その結果、読者がかえって闇から脱出できなくなる。



しかし、読み返せば読み返すほど、いろんなところが気になるチャットである。
正直言って、全部破棄してしまおうかと思った。(笑)
「太宰に勝った!」などと言う発言は、私の傲慢さからくる戯言(たわごと)意外の何者でもない。
しかし、途中で思い直しました。
ここをカットしてしてしまうと、アッチコッチで文章が繋がらなくなってしまう。^_^;

「チャット」というのは意外と「素」の自分が出てしまう。
エエカッコシーしたくても、なかなか出来ないもんだなぁ、と思う。
どちらかと言えば普通の会話に近いのかもしれない。

しかし、厄介な事に
「ゴメンゴメン!失言!」
と取り消しても、書いた文章が残ってしまうのがなんとも恐ろしい。(笑)

しかし、あまり気分は乗らないのだが、自分にとって気乗りのしない文章が必ずしもいい物とも思えない。逆のパターンもあるかもしれない。
酔っぱらってルンルン気分で書いた文章にロクなものはない。
・・・・と、いうことで、そのまま載せることにした。
どうも私は近頃、自分自身の「いい気分」も「悪い気分」も信用できない。^_^;

そんなわけで、こんなやりとりを載せたら、太宰治が好きな「大地さん」や「愛明さん」は

「どこが俺達の『リンク記念日記』なんだ!太宰治をボロクソに言いやがって!頭にきたぞ!リンクなんか取り消しだ!」

なんてことになるんじゃなかろうかと思いましたが・・・許してくれますよね?

取り消しだ!なんて言わないで下さいネ。(笑)

私は、人間というのは、誰でも揺るぎのない本質的な法則を求めてる、と思っています。
私は、大地さんの7月7日の日記を読んで、とても面白いと思いました。
「一体、大地さんと私と何処が正反対なんだろう?」
と思ったくらいです。

求めてる最終地点は一緒じゃないかと。
ただ、大地さんと私とでは入り口が違っているだけではないか。
入り口が違えば当然通過点も違う。
そして、私の場合の通過点は宮本輝だったり仏教理論だった。
大地さんの場合は太宰治だったりニーチェだった。
それだけではないか。

私が太宰治の作品を読んでもチンプンカンプンなのは、本質的な法則を求めるときのアプローチや、そこに至るための論理展開の方法、使用する語句が私とは違うからではないか、と思ったわけです。

実際のところ「大地さん」や「愛明さん」の文章は私にとって、とてもムズカシイ!(笑)

それは私の頭の中で、論理展開の組み直し、語句の変換作業、が必要になるからではないか。

もちろん、これは一つのたとえであって、実際はそんな簡単なものではない、と思う。

ちなみに、宮本輝は「泥の河」で「太宰治賞」を受賞しています。

よかったぁ。なんとかオチがついたぞ!← かなり無理があるが・・・(笑)

と、いうことで、今回は

「大地さん・愛明さん・相互リンク記念日記」
(長いタイトルだ・・・)でした。(^_^)v

7月18日(月)

太宰治・「斜陽」「人間失格」を読む


太宰治の「斜陽」と「人間失格」を読む。

以前「斜陽」を読んだ時は(20代前半)チンプンカンプンだったが、今読み返してみると意外と面白くて2冊とも一気に読んでしまった。
太宰治がなぜ今でも多くの愛読者を獲得しているのか、その一端が分かったような気がしました。

小説の中の登場人物というのは作家の人間性の投影でもあるわけだが、「人間失格」の主人公である葉蔵は特に太宰治その人の素顔に最も肉迫したものである、と言われている。
もしそうであるとしたら、太宰治という人はなんと哀しい人だろう。
彼は「人間失格」の第一回が連載の形で雑誌に発表された(全三回)その一ヶ月後に自殺した。
「人間失格」の最後の方でも、やはり主人公である葉蔵は自殺を暗示するように描かれている。

太宰治その人の心の本質は、恐ろしいほどに透明で清らかなものだったと私は感じた。
「人間失格」の最後は次のようにして締めくくられる。

「私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・・神様みたいないい子でした」

太宰治自身もきっとこのような人だったのだろう。

そして、そんな彼だったからこそ自分自身の心に内在する醜さを許せなかったのだろうと思う。
彼の自殺は徹底的な自己否定が引き起こした当然の帰結だとも言えるが、なんともやり切れない気分になった。
人間が汚れているのは当たり前だ。
これは、開き直りとかそういう問題ではなく、事実として受け止めるしかない。
だからといって、自己否定や自己嫌悪からは何も生まれない。

太宰治はその透明な心で、人間の本質や社会の本質を冷徹に見つめていた。
しかし、その本質を憎むことに囚われ、そこからの脱却にあまり心を砕くことはしなかったのではないか、と思う。そして、これは太宰治に限らず「文学」全般に当てはまる一般的な傾向ではないだろうか。

人間の心の本質や社会の本質を微細に正確に見つめることは「文学」の得意分野だが、そこからの脱却を提示した文学は皆無に等しい。
「文学」の基調低音の調べは「絶望」である、と言い切ってもいい。
文学にハッピーエンドは似合わない。

太宰は自殺してしまったが、彼は「人間失格」を執筆しながらも心のどこかで
「俺のマネして死んだりするなよ」
と、思っていたような気がしてならない。

今日は、「投稿エッセイ」に、大地さん の 「論理と力」 を 追加しました。

大地 さん、ありがとう!(^_^)v